トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』

 

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

 

 この小説を読んで、ある人を思い出した。

中学3年生の時。私は男子ながら男子との仲が上手くいかずに、女子とばかり話していた。当時の担任曰く、君は精神年齢が高いから合わないんだよ、とのことだったが、確かにそうだったかもしれない。

この小説の主人公トニオ・クレーゲルは、ハンス・ハンゼンとの放課後の散歩を楽しみにしている。よく考えると、自分にも確かそんな思い出があったのである。

当時男子と仲良くできない私であったが、そんな私にも中学3年生の時、少し話す男子の友人が出来た。というのもその時には、よく話す女子を仲介にして男子とも言葉を交わすようになりつつあったのであるが、その中でも彼だけは特別だった。

文化祭を同じグループで頑張ることになり、つまり既に秋に入りかけている頃であったが、言葉を交わす回数も増えていた。それはさながら、トニオ・クレーゲルがハンス・ハンゼンに向ける思いと同じであった。

ハンス・ハンゼンは美男子、というか凛々しい姿が描かれる。一方彼はどうだったろうか。私は相当に背が高かったこともあって、彼はそれほど背が高くはなかった。美男子であったかといえば、確かにその顔貌のようになりたいと願ったこともあるし、惚れるような顔であったけれども、特別に美しかったかといえば微妙だ。ただ、よく話す女子からの評価が高い顔であったから、一応整っていたというのは間違いないだろう。

しかし私は、トニオ・クレーゲルとは全く異なる。トニオ・クレーゲルは、ハンス・ハンゼンのようになろうとはしなかったのである。

私は彼のようになろうとした。私はまま人生の中で、男らしくなろうとする時があって、彼は私のその衝動を誘発した。よく覚えていないが、当時の私はいきなり腕立て伏せを始めたりしていたはずである。

そうしたところから多少の差異はあるものの、私が彼に向けていた思いというのは、トニオ・クレーゲルがハンス・ハンゼンに向けていたよりもずっと恋愛に近いもので、それはまるで自分が同性愛者なんじゃないかと思わせるほどであった。

トニオ・クレーゲルがハンス・ハンゼンに向けた思いはどのようであったか。或いはその後、インゲボルク・ホルムに向けた愛情はどうであったか。一方その後、リザヴェータ・イヴァーノヴナはどうして友人であり恋愛感情を抱かなかったのか。それはトニオ・クレーゲルの「無いものねだり」ではないかと思うのだ。

トニオ・クレーゲルが何よりも劣等感を感じるのは、彼が北方と南方の血が混じったマージナルな存在であって、また父親由来らしい市民としての精神と母親由来らしい芸術家的精神の相克の間にいるからであろう。いや、それを劣等感と呼ぶのは多分誤りだろう。彼は、その明確な区別のなかに、市民たろうと羨望の眼差しを向けはするものの、時に詩人にならんとする市民を蔑む精神も見え隠れする。

しかし最後の終わり方には、諦念を感じる。つまりある種の彼の「私は市民にはなれないのだ」という諦めと、芸術家として生きていかなくてはならないという覚悟。彼は芸術家として、ハンス・ハンゼンのような、或いはリザヴェータ・イヴァーノヴナのような人々に捧げようと作品を著し続け、一方で『ドン・カルロス』をハンス・ハンゼンに、結局は読んでほしくないと願うように、その作品が届かないことを祈る。そうした大いなる矛盾の中に、彼は埋没し、それを決意する。

さて、そう感想を抱いたところで、どうにも引っかかることがあるのである。どうやらこの作品というのは、トーマス・マンの作品の中でも特に人気を得ているものの一つで、共感を以て受け止められているらしいのである。この作品が扱っているテーマは、それほど普遍的なものだったろうか。

つまりトーマス・マンは、芸術家と市民という交わることのないものを描きながら、芸術家を批判的に描いているらしいのだけれど、それは確かに芸術家階層の中では共感を得ても、若者は共感できるのだろうか。

とすると、例えば私と同じように、トニオ・クレーゲルがハンス・ハンゼンに向けたように、無いものねだりに近い愛情の経験があって、それがもしかするとマージナルな自己の相克の表出なのかもしれないと言い訳をつけるのに読んだということなのだろうか。そうだとすると、なかなかヨーロッパの若者というのも身近に感じられて面白いと思うのである。