映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使い』

さて、「ハリー・ポッター」シリーズの魅力はどこにあるのか。

魅力的な魔法の世界? いや、違うと思う。というのも、実際には魔法を取り扱った作品はたくさんあったはずだし、「ハリー・ポッター」でなくてもいい。

今までも有名なファンタジーはたくさんあった。『指輪物語』や「ナルニア国物語」シリーズには往々にして魔法が登場する。

指輪物語』はハイファンタジーの名作として名高い。作品の世界は私たちの住む世界とは違う、どこか別の場所。そういうのが想像力を掻き立てるのだろう。

ハリー・ポッター」シリーズの魅力はそうではないところにあった。つまり、この作品で描かれる世界は、私たちの隣にあるのであって、別世界の話ではない、という点だろう。

私たちが「マグル」と呼ばれて作品世界の中に取り込まれる。

ハリーはもしかしたら私たちの隣の家に住んでいる小さな男の子なのかもしれない。私たち自身のところにもホグワーツ魔法魔術学校からの手紙が届くかもしれない。そういうところが「ハリー・ポッター」の魅力だったのではなかったか。

 

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とは言いつつ、私たちはハリーたちの暮らす世界が私たちの住む世界に隣り合っていることを決して忘れないわけだが、かといって重なり合っているという感じはあまりしなかった。

実際あの作品でマグルの世界が描かれるのは、ハリー界隈か、或いは『謎のプリンス』なんかでデスイーターたちの悪影響がマグルにも及んでいるシーン、『死の秘宝』でハリーたちが隠れ穴からロンドンに逃げるシーン、ぐらいだろう。

とは言いつつ、私たちは「ハリー・ポッター」シリーズからJ.K.ローリングの想像力が、マグルの歴史の影響力下にあることも知っている。

端的に言えば、デスイーターとはそのままナチスだろう、ということが分かるわけである。

かつてハリーは赤ん坊の時ヴォルデモートを「倒した」わけだが、その後、少なくない数のデスイーターが「服従の呪文」のためにヴォルデモートに従っていたのだ、という風に言った。これこそまさにナチスなき後、自分がナチスに従っていたことを、周囲の環境のせいにしたようなかつての人々を想像させはしないだろうか。

 

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と言うのは、あまりに深読みが過ぎるのかもしれない、と思っていたところ、今回の映画は、まさにJ.K.ローリングの想像力が、実際には我々の歴史にも及んでいることを明確にしていた。

グリンデルバルドが語る甘い言葉に多くの魔法使いが騙される。特記すべきは、彼の思想が、かつての(厳密には後の時代に来るべき)ヴォルデモートとは違って、それほど分かりやすくない、というところだ。

ヴォルデモートの思想とは、要するに「マグルを殺せ」というところに尽きるわけだが、グリンデルバルドの思想は端的にそういうわけではなさそうだ。というのが、彼がクリーデンスを執拗に追いかけるところにも現れている。

なぜグリンデルバルドが執拗にクリーデンスを追い求めるのか、その理由は今のところ明らかにされていないが、そこにグリンデルバルドの思想の根幹があるのは明白だ。それがこの5作で描かれることになる。

 

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5作、と言えば、実はこの作品の結末は決まっている。

もちろん「ハリー・ポッター」シリーズも厳密には結末が分かりきっていた。あの物語が、ハリーの敗北、ヴォルデモートの勝利、という形で終わることはほとんどあり得なかった。

けれどそれ以上に「ファンタスティック・ビースト」シリーズは結末が分かりきっていた。なぜなら、このシリーズは「ハリー・ポッター」シリーズの前史に位置づけられるからであり、J.K.ローリングは、ダンブルドアとグリンデルバルドが戦い、ダンブルドアが戦う、というところまですでに明らかにしているからである。

もっと言えばJ.K.ローリングはこのダンブルドアとグリンデルバルドの間の恋愛関係も明らかにしているわけだが、それは今回クリーデンスがダンブルドアの弟なのかもしれない、ということでさらに混迷を深めそうだ。

また、グリンデルバルドは、マグル(或いはノー・マジ)に任せていては人類は戦争に突入する、と魔法使いたちを先導するわけだが、私たちが第一次世界大戦後、第二次世界大戦に突入したことはすでに起こった事実であり、避けようがない。

ハリー・ポッター」シリーズは、ダンブルドアの構想をめぐる物語だった。

ダンブルドアが構想したヴォルデモートを倒すルートを、ハリーが辿る物語。もちろんその構成は、ダンブルドアの最後とニワトコの杖の顛末をめぐって破綻するのだが、少なくともそれまではダンブルドアの構想を辿る物語だった。

では「ファンタスティック・ビースト」は? 

人類の歴史と、魔法界の歴史はすでに設定の中に組み込まれていて、結末がわかっている。問題はそこへ行くまでのルートをどのように描くかで、それがここから先面白いところだ。

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専ら本作に関して言えば、不評もあるだろうと思う。

J.K.ローリング本人が脚本を担当している、というのもあって、脚本の盛り上がりがない、というのはある。

本と映画というのは全く違う。

本の中の時間は、ページをめくらなければ進まない。だから、つまらなければページをめくらなければいい。それでまたは話が気になれば読めばいい。本の中の時間は、しおりが挟まれた箇所から進まずに止まっている。

映画の時間はそうはいかない。映画の感想に「ジェットコースターに乗っているようだった」という種のものがあるように、始まってしまえば映画が終わるまで止まることはない。途中でトイレに立てば、戻ってきた時にはその分物語が進んでいる。

J.K.ローリングはこの違いが分かっていないのではないか。

というのはこの映画が終始単調で、いまいち盛り上がりに欠けるところからも感じられる。

しかし、「ハリー・ポッター」シリーズのファン、ポッタリアンからしてみれば、垂涎の内容だった。

かつてアーサー・ウィーズリーがハリーに語ったように、当時の魔法省ではフクロウ便が用いられていたり、ダンブルドアが闇の魔術に対する防衛術の教授として真似妖怪ボガートを使った授業をしていたり。

残り3本……かなり長い時間かかる予感がするのだが、ニュート・スキャマンダーがこの先どのように魔法界の歴史に関わっていくのか(というか実はその中の恋模様)を丹念にこの調子で描いて欲しい。

 

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追伸。

ニュートをコミュ障とする向きもあるようだが、個人的には発達障害だと思う。

同じく名言されないが発達障害を描いたのであろう「僕らは奇跡でできている」が放送中で、それが終わった段階で発達障害の表現のされ方については考えたい。

旧XOY系マンガ論序説

はじめに

スマホで読める無料マンガアプリ、と言えば、LINEマンガやcomicoが有名だが、そんな中にあって異色の漫画作品を連載してきたのが「XOY」というマンガアプリである。

実体はLINE(というかnaver)系で、一時期広瀬アリスがCMをやったりもしていたのだが、10月以後、XOY系のマンガは終了するか、LINEマンガへ移行することになってしまった。

このアプリで連載されていたマンガの特徴は元がnaver系であることも相まって、韓国系が多い。いわばマンガではなくmanhwa(マンファ)なわけだ。

それだけではない、このアプリでは(少なくとも確認した限りでは)全てのマンガが縦読みになる。この形式はcomicoなどにも見られるので、旧XOY系に特異、というわけではないのだが、LINEマンガは紙に印刷されるようなマンガをそのまま取り込んでいるので、スマホの画面では見づらいところもある。それに比べると縦にスライドするタイプは、コマ間の移動にリズムが感じにくい分慣れが必要なのだが、実はスマホではそちらが読みやすい、という面もある。

そんなXOYで連載されていたマンガについて、それぞれ短く面白さを語ってみたいと思う。タイトルについては「○○論序説」という言葉を使ってみたかっただけなので、さほど意味はない。

「外見至上主義」(T.Jun)

描いているのは韓国の方で、タイトル通り、韓国社会における見た目重視の考え方、Lookismに題をとった作品。主人公は長谷川蛍介。ブサイクだといじめられていたのだが、何とか高校は遠くの高校に通い、心機一転を図る。それを機に彼は寝ている間、モデル体型のイケメンに魂が入れ替わってしまい、昼はイケメンとして高校に通い、夜はブサイクとしてコンビニバイトをする生活を送る。

外見によって態度が大きく変わる周囲の人々は胸糞悪いが、そんななかにも友情が垣間見えたりする。バイオレンスは要素もあって、時々目も当てられないほどひどいいじめの描写などもある。

物語の構造としては、蛍介がイケメンとしてちやほやされ、少し浮かれ、ブサイクに戻っていじめられたと思ったら、少し優しくされて「やっぱり顔じゃないんだ、自分の心構えの問題なんだ」みたいに気づいたりする、のを何度も繰り返す。

物語全体の展開が冗長、という側面も確かにあって、森永というキャラがいじめられているシーンは何週間にも渡って救いようのないシーンが描かれた。救いようがないのはいじめっ子ではなくて、いじめられっ子である森永の方。彼が出ることで「ブサイクは心が優しい」というような反発も回避している。

この作品の面白さは、体が入れ替わり、イケメンがいかに優遇されているかを経験した主人公・蛍介が、ブサイクの体に戻ってどのように過ごすか、というところに尽きる。日本であれば「外見なんて関係ない」と処理してしまいがちなLookismを、あえて厳然として存在するもの、と捉えた上で、それを否定も肯定もせず、そのなかで自分自身のあり方を問いかけるストーリーになっているのだ。

「私は整形美人」(メンギ)

実はこの作品は連載終了してしまっているのだが、とにかく面白い。個人的には「外見至上主義」よりも面白いのではないかと思う。

主人公の片桐美玲は大学入学と同時に、自分の顔面を整形して臨む。大学デビューには成功するのだが、ブサイクだったことによる卑屈さが手伝って、なかなか正直に感情を表現できない。

そこに登場するのが穂波。こちらは生まれつきの天然美人で幸せに生きてきた……かに思えるのだがそこには裏がある。これは作品の終盤なのであえて詳しくは言うまい。

この2人が好意を向けるのが坂口慧でかなりのイケメンなのだが、当初から美玲に興味を抱いている様子。絶対に両想いなのに当人がそれに気が付かないでもどかしい、というのは『君に届け』以来の鉄板。

好ましいのは主人公の美玲が調香師を目指している、という設定。ただ顔面が良くなれば良いわけじゃなくて、ブサイクだったころに助けられた香水から確固たる自分を持っている。

「外見至上主義」には高校ならではのLookismがあったが、「私は整形美人」にはこの作品なりのLookismがある。特に大学の学祭か何かで、女を売るような接客をさせられるシーンなどはそのリアリティにはらわたが煮えくり返る思いだった(それがどう展開したかはそれぞれでご確認いただきたい)。

やっぱりこの作品の良さも「顔面の良し悪しなんて関係ない」的な思考を廃し、整形し、新たに生まれ変わった美玲を肯定するところに魅力があると思う。

「女神降臨」(yaongyi)

これは面白い。というか、まず絵が圧倒的に上手い。上記2作と同じでLookismを取り扱った作品なのだが、主人公はメイク術で美人──もとい〝女神〟の評価を得た谷川麗奈。そんな彼女が過ごす学生生活の話だ。

上記2作品がシリアスな場面もあるのに比べて、「女神降臨」はコメディ要素が豊富で、クスッとしたりニンマリしたり。何より谷川麗奈という主人公のキャラクターが面白いのだと思う。

勉強が出来ない、だとか、将来何になろう、だとか、当たり前に悩む話が「メイク」というところに彩られて面白くなる。そこには恋の予感もあるわけだが、その展開が面白い。先ほどの「私は整形美人」のように、両思いだろうになかなか通じない想い、みたいなもどかしさはあるわけだが、そのもどかしさがイライラするというより、一種滑稽で笑ってしまう。

映画『ビューティーインサイド

XOY系のマンファを離れて、上記3作品に共通するLookismというキーワードを手掛かりに、『ビューティーインサイド』を紹介したい。

キム・ウジンはある日から毎朝目覚めるたびに、老若男女を問わず外見が変わってしまうようになり、人と会わずに済む家具職人をやっていた。そんなキム・ウジンはホン・イスに恋し、アプローチするのだが、という話。

大抵韓ドラを見て気になった俳優を検索すると、この映画でキム・ウジン役をやっていることが多い。日本語版のWikipediaを見る限り、キム・ウジン役は23人いるらしい。日本からだと上野樹里もキム・ウジン役で出ている。

ホン・イスに好かれようと、たまたま朝起きてイケメンだった日、寝るとその容姿が変わってしまうので、寝ないようにホン・イスにアプローチするシーンなどは感慨を覚えずにはいられない。

物語の本質は「人を好きになること」それ自体を問いかけることであり、「人を見る」ということの意味なのだと思うが、そこにはほのかにLookismを感じ取ることができる。もちろん、キム・ウジンが朝起きると女性になっている日もある、という点で同性愛を擁護するような意味合いも読みとれなくはないが、それも「人を見る」「人を好きになる」というところの一部に過ぎないだろうと思う。

アンタッチャブル」(ZINI)

主人公の久遠咲良は「人の精気を吸う」というバンパイア。まさに天職ともいえるモデルで、一緒に撮影する男性から精気を吸い取ったりするのだが、偶然出会ったイケメン・新条蓮の精気の魅力に取りつかれ、新条にアプローチしていく、というストーリー。

バンパイアもの、と言えば、ここ数年では『トワイライト』シリーズが思い浮かぶところだ。今後しばらく全ての魔法ものが『ハリー・ポッター』シリーズの影響下にあることが容易に予測されるように、今後しばらくバンパイアものは『トワイライト』シリーズの影響を受けずにはいられないだろうと思う。

そんな中にあって、「血を吸わない」「女性の」バンパイアという設定はかなり面白い。(女性のバンパイアは『トワイライト』にも出て来るが、ヒロイン(『トワイライト』で言えばベラ)がバンパイアというのはかなり珍しい)

この作品を面白くしているのは「ボディタッチ」という要素だと思う。なぜか分からないが韓国ドラマなどを見ていると「スキンシップ」が大きな意味合いを持っていることが分かるのだが、この作品でも「肌に触れないと精気を吸い取れない」という設定が物語をよりややこしく、そして面白くしている。

精密に分析すると案外簡単に打ちのめされてしまうかもしれないが、実はこの咲良と新条を奪い合うことになるのは男性で、このあたり、もしかするとホモソーシャルを排除することに成功した三角関係を構想できるのかもしれない(し、新たな疑似的な「ホモソーシャル」が構造されるだけなのかもしれない)。

「私のアイドル」(HOY)

主人公の千賀宇奈はアイドルのファン。そのアイドル・橋本拓海が社長を務める会社に就職することに成功するのだが、社長は別の男性に交代しており、元の社長は名誉職の座に収まっていた。

今の社長・千佳良強は、千賀宇奈が「社長目当て」であることから勘違いして、千賀が自分のことを好きなのではないかと誤解するところが面白い。そのすれ違いが、殆んどアンジャッシュのすれ違いコントみたいに展開するのだが、特段不自然さは感じない。

もう少しネタバレをお許しいただければ、この千賀は実は晴れて橋本拓海と付き合うことに成功する。本来であれば「橋本拓海とかいう男、千賀を弄んでいるんだな」と思ってしまいがちなのだが、そうではないらしいことに気が付く。ただこの橋本拓海が人気アイドルであることが災いして、ある女芸能人が拓海と付き合っていると言いふらし、千賀をストーカー呼ばわりするところから物語は混迷を極める。

「拓海も拓海だが、千賀も千賀」みたいな感じで、典型的な三角関係ではあるものの、主人公の意思がはっきりと拓海の方に向いているのだから面白い。おそらく今後社長(強)と良い感じになるのだろうが、今のところそんな雰囲気は微塵も感じられない。展開が楽しみな作品だ。

「君とのツナガリ」(ちーにょ)

こちらはインディーズっぽいというか、とても本にするのに耐えうるクオリティではないのだが、一応面白い。

主人公は美月という女子高生。典型的な「幼馴染と再会して恋愛」系なのだが、大抵そういう作品にあるしっちゃかめっちゃかな女同士の争いがない。というか、その萌芽は見られるのだが、そういう争いの芽を駿が片っ端から摘んでいくので、「ああ、美月はこのまま駿と付き合うんだろうなあ」という疑念が揺らぐことは一瞬もない。

多分作者自身が美月と駿というカップルを好きすぎるが故に、それを揺るがせるような大事件を描けないのだろう。だからこそ、一般的な恋愛漫画にあるようなハラハラドキドキ感には欠けるが、むしろそういうのが苦手な人からすると面白いのかもしれない。

「偽装不倫」(東村アキコ

さやわかと大井昌和が「東村アキコはダメ」という話をしたという噂が飛び込んできたのだが、個人的にはどこが「ダメ」なのかよく分からない。この作品は飛びぬけて面白いわけではないにしろ、普通に面白いと思う。

主人公・鐘子は独身女性。姉の結婚指輪をひょんなことからはめたまま韓国旅行に出向き、そこでジョバンヒという好青年と出会い、既婚者を装ってしまう。

ここから分かる通り宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にモチーフを得て名前が付けられたり、それにちなんで物語が展開したりしているようなのだが、なにせお恥ずかしながら『銀河鉄道の夜』を読んだことがないもので、よく分からない。

ただ世間が「不倫」で騒ぐなか、あえて「偽装結婚」ではなく不倫を偽装し「偽装不倫」をしてしまうところが面白いわけだ。このジョバンヒというのが、どうやら何らかの病気で寿命がそう長くないらしい、みたいな『僕の初恋をキミに捧ぐ』的展開もあるわけだが、これも大してこの「偽装不倫」というテーマを邪魔せずに機能していると思う。

と、書きながらふと思ったのだが、もしかするとこれ、面白くないのかもしれない。

「水の中の1分」(bubu)

はっきり言おう。面白くない。

内容よりコメント欄の方が面白い、との評を得る本作。ただ作者の方が東南アジア系の人らしく、もしかすると発展途上国ではこういう恋愛が好まれるのかもしれない、とも思った。というのも日本での高度経済成長期やバブルの頃を彷彿とさせるような展開に思えないこともないからだ。

主人公の女性は(名前を出すのもめんどくさい)、自分が可愛いということにうぬぼれている節がある。水が苦手で海に行くか何かで水泳教室に通うことになり、そこのコーチと恋愛することになる。だから「水の中の1分」なのだが、実際その後水泳することはほとんどなくなる。

水泳教室だというのにきわどいビキニで来て「それじゃ練習できません」的な展開があって、もうほとんどカオス。

挙句の果てにヒロインの母親が出てきて、コーチに向かって「あなたは自分に自信がない。それじゃ娘は守れない」と説教を垂れる始末。

うーん、救いようがない。

ただ、そういうのをメタ的に楽しむ、という楽しみ方もできるので、読んでほしい作品ではある。

本を読んで賢くなることと語り合うこと

本を読むと賢くなる。というのは、まさにこの一年実感していることだった。

自慢じゃないが、今年は本を読む年だった。実はそれでも足りないくらいの読書量が自分には求められているのだが、それでも人生でも屈指にたくさん読んだ年だった。

主軸は文学に据えたつもり、だった。塩野七生の『ローマ人の物語』に手を出してみたり、『ゲンロン』を買い始めてみたり、『新潮』や『国語と国文学』を定期購読するようになったりしたこともあって、途中で文学から離れかけた節もあったのだが、夏頃から軌道修正もできたと思う。

だからこそ、今年の自分の知的な成長幅は人生でも屈指だ、と自負している。その「賢くなった」という自覚は、同時に、「分かっていたことが分からなくなった」ということと同義で、だからこそそれが次の知的好奇心を喚起するわけだが、その循環が徐々に構築されつつあると思う。

具体的に言うと、今年は毎月読むことに決めている本のシリーズや雑誌のほかに、それぞれ「海外文学」「批評」などとテーマを決めて、それぞれのテーマに適する本を毎月読んだ。何かに偏りがある読書を避けるためだ。来年はこれをさらに進化させて、「哲学」というテーマを作ってみたり、新書に目を向けたりもしていきたい(無論、新書は筆者の偏見に満ちた、あらゆる事柄の導入と入門にしかならない)。

この「賢くなった」という感覚は、同時にむず痒さを覚えるものでもある。

例えば、大学入試などであれば、新たな知識を得て「賢くなった」と自覚したということを、実際に問題を解いて確かめることができる。そもそも学校の勉強、特に問題を解くというのは「分かっていることを確認する」のではなく、「分かっていないことを確認する」ことに比重が置かれるべきなのであって、○をつけることよりも、×をつけることの方が本質的に大切だ。

と、これを今の「勉強」に導入してみると、これが存外難しい。例えば今年はキェルケゴールの『死に至る病』を読んだ。が、まるで分からなかった。しかしそこには「賢くなった」という自覚がある。これは単なる誤解なのかもしれない。他にも、村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだ。ここにある問題意識は、非常によく分かったつもりだ。もちろんそこには「賢くなった」という意識もある。ただ、それが本当に「分かって」いて、本当に「賢くなった」のかは分からない。

このブログはそういう点で機能している。

そもそも自分は、インプットの量とアウトプットの量に大幅な不均衡があると、体調が悪くなる、という特異な体質なのだけれど、その中でインプットしたことを、本当に自分の血肉にできているのかを、何かテーマを決めながら書いていく。大抵は「分からない」などと思うわけだし、そこに悔しさがある。もっと「勉強」しなくては、という結果になるわけだ。

本で読んで賢くなる、というのはかなり難しいところで、例えば「テスト勉強で教科書を読む」などと言い始めたら、それはきっと悪い点数を取るフラグだ。「読む」だけで頭の中に入るのであれば、みんなハーバードだって夢じゃない。

さて、やっぱりそこで大切になるのは、極めて限定的な意味での「アクティブラーニング」だと思う。例えばこうして、心もとない知的水準で文章を書いてみる、ことがそういうのに当たる。

大学の演習だとか、あるいは自主ゼミもそういう類なのだが、やっぱりそういうのを経て感じる「賢くなった」という感覚は、本を読んで感じる曖昧なものと明確に違う。

あえて「語る」という微妙な言い方をせずに「喋る」という言い方をすれば、やっぱりそういうのは大切だろうと思う。「喋る」中で、ふわっと小説家の名前が出て、その小説のあらすじを説明したり、アニメの魅力を語ったりすると、自分でも気がつかなかったところに気が付いたりする。これは「対話」ということだけではない(格好つけて「自分との対話」と言ってもいいが)。

「賢くなった」というのは、すなわち「知識」を身につけられた、ということだけではない、と思う。本を読んだり、(今度は多くの意味を含む)「語り合う」という行動の中で、パラダイムが手に入る。

格好つけているように見えるかもしれないが、話はもっと単純で、あるアニメを「好きではない」と考えているときに、それを「好きだ」と思う人と会う。そうするとそこでそのアニメについて語り合う。自分が魅力だとは思わなかった点を熱く語るその中で、「そういうところに魅力を見出すのか」というのが分かる。別にこれに同調する必要はないのだが、メタ的にそれを知ることができる、というのはかなりありがたい。

良い本とは何か、ひいては古典とは何か。それは多義性だと思う。それをもっと具体的に言えば「再読可能性」と言ってもいいと思うし、あるいは「読み返して面白いか」と書き下してみてもいい。特にそれが現れているのは渡部昇一の『知的生活の方法』で、彼は自分が面白いと思って何度も読み直した本は世間的な評価も高かった、と書く、それは間違いない。

もちろん優れた人間は、自分で読んでも、その多義性に親しむことができる。優れていなくてもできる場合がある。それが「愛読書」ということだったり、「時々読み直す」というようなことなんだろう。

さて、本を読むのは大切だ、と思うのだが、なぜ自分がそれに拘泥するのか、というと、当然「賢くなるため」だろう。じゃあなぜ「賢くなること」に拘泥するのか、はちょっとよくわからない。

ふとこの間、他の人に自分が言った言葉に、我ながらふと思ったことがある。それというのは「知らないっていうのはとっても恥ずかしいことなんだよ」だった。

普通「知らないっていうのは恥ずかしいことじゃない。だから他人に訊きなさい」みたいな用いられ方をするのだと思うが、自分にとって知らないということは恥ずかしいことで、「知らない」という状態が耐えられないから恥を忍んでも本を読むらしい。

そこで知ったところで、知らないことがさらに増えるだけだ。そして知ったと思ってもそれが定着しているかはわからない。

自分は人文学徒なつもりだけれど、人文学というのはそれを利用するチャンスが少ない。何らかの読書会などを通じて、いわば戦争、実戦の中でそれを定着させる方法もあるだろうと思う。

例えば、自分は東浩紀が好きで(と言うと人文学界隈からは白い目で見られたりする。けど、自分は東浩紀経由でしか批評や哲学書を読まないのでなんとも言えない)、ゲンロンのYouTubeの無料生放送を見たりする。お酒を飲みながら9時間ぐらい語り合ったりするその様は、もうほとんど狂気だと思うのだけれど、それを面白そう、と考えている自分もいる。それはやっぱりそういう実戦を経験してみたい、という側面があるからかもしれない。

ただ、人文学にはゲリラ戦的な戦いの場面もある。何か社会的な事柄について、急に人文学的なパラダイムが求められたりする。例えば、デュシャンの『泉』に変な解説が加えられたり、バンクシーが自分の絵をシュレッダーにかけてみたり、東山魁夷の絵がエロゲに似てると言ってみたり、『美しい顔』という小説に盗作疑惑が持たれたりしたときだ。

芸術にはとんと疎い自分も、やっぱり考えざるを得ない。というのは、人文学徒ぐらいはこういうことを真面目に考えないとならないだろうし、それぐらいできる人文学徒になりたいからだと思う。(と言いつつ、現代美術に疎い自分は、大抵どうでもいい、と思ってしまっている側面もある)

バンクシーの絵の話なんかはかなり面白いと思った。それはそれが「作者が作品を発表後も支配する試み」だと思ったからだ。

文学でも京極夏彦が版面にこだわったり、黒田夏子が横書きでひらがなばかりで作品を書いたり、そういう形で、生み出したものを受け取る読者の感覚を支配しようとする。もちろん解釈という自らの精神への複写の時点で、その複写は失敗することが確定しているわけだが、その試み自体は面白いと思う。

バンクシーの絵も同様で、「絵を描いたらあとは任せます」的な態度を取らず、その絵が数年後まで自らの構想の支配下に置こうとするのは面白いと思う。(本当に置けているかは別として)

そしてそういう発想には、ロラン・バルトの言う作者の死なり、ジュリア・クリステヴァの言う間テクスト性を精密に理解する必要があることになる。そんなことは出来ていない。つまりそういったことを自分は「知らない」し、だから「恥ずかしい」と思う。

 

 

話がとっちらかって回収が難しくなっているが、要するに「これからも恥ずかしい思いをしたくないので頑張ります」と言いたいわけだ。

なぜそんな話をするかというと、実はもう今年も2ヶ月を切っているから。これから今年読んだ小説や、見たアニメや映画なんかを振り返りながら何か書きたい、と思うので、そういうシリーズの第一弾として、2018年はそういう心持ちでした、というのを書いておいた。

残り2ヶ月(切っていますが)、一生懸命頑張ります。(何かを)

ドラマ「フェイクニュース」と野木亜紀子の可能性

軽めの野木亜紀子論、ぐらいなつもりで書きたいと思いますが、「フェイクニュース」というドラマを見て、やはりこれは凄かった。

と言うのも、「逃げるは恥だが役に立つ」にしたって「アンナチュラル」にしたって、1クールあるドラマだと、それなりの話の中で色々取り上げることになる。

けれど「フェイクニュース」は2週しか続かない、その中であらゆる要素を詰め込んでいました。そうなると普通はそうした要素がボロボロに繋がって、作品として仕上がらないだろうけれども、それを仕上げてしまうのが野木亜紀子という脚本家の凄いところだろうと思う。

もう少し、この凄いところを書くと、それはやはり「説教くさくない」というところにあるんじゃないだろうかと思います。と言うのも、そういう要素を詰め込むと、「これはいけないよね」という話になりがちだし、そういうセリフを誰かに言わせてみたくなる。それが作品を統べる(統べたつもりになっている)作家の傲慢であることは言うまでもありません。

どんな要素があったか

メインは県知事選を舞台に、その背後に渦巻く陰謀と、それに巻き込まれた小市民のネットでの炎上、といった具合でした。それをネット記者のメディアが見る、という形式。

「記者」というのは存外便利な立ち位置で、例えばサスペンスなんかでも「記者」という立場から謎解きをしたりすることはあります。

県知事選と言えば、主に荒れるのは新潟県沖縄県でしょう。今回は舞台が「川浜県」ということで、おそらく「川崎」と「横浜」なんでしょう。そこへの移民問題なんかは、「川崎」の辺りを意識しているんでしょう。

移民問題外国人労働者問題は近頃ずっと話題です。最近はそれに加えて入管での人権侵害疑惑なんかも騒ぎになるわけだけれども、そうした要素もあった。

主人公の記者の東雲樹というのが在日なのではないか、というのがネットで言われ、叩かれ、「反日暴力記者」というレッテルが貼られる。この何かあった時に「反日」というレッテルが安易に用いられるのは、まさに現代の社会を反映したものだと言えましょう。

そもそも主人公はネットメディアに所属するわけですが、そのネットメディア自体に対する懐疑心のようなものも書かれている。左派からすれば「産経ニュース」なんかがそれに当たるのかもしれませんし、個人的には「リテラ」なんかは酷い記事を書くと思います。あとは「サイゾー」とか、その辺りが意識されているのではないかと思います。

物語のきっかけはカップうどんに青虫が混入していた、というところから話が始まるんだけれども、まず最初に思い出すのはしばらく前のマクドナルドでの異物混入問題。近頃でも定期的にネットで話題になり、盛り上がり、販売している会社が謝罪する、というパターンがために見られますが、まさにそれを反映した形でした。

青虫混入でTwitterを炎上させた猿滑の顔・名前・住所・家族までがネットで曝されMADが制作される様などは、そのまま最近見る流れのように思われました。いじめ自殺のとき、加害者の名前や住所が鬼女板に曝されていたのが思い出されます。

政治家の運転手へのパワハラ豊田真由子元議員がモデルだろうし、政治家のセクハラは枚挙にいとまが無い(が、おそらくモデルは財務省事務次官のセクハラだと思います)。

何より前編の、情報の真偽に拘泥せず、安易にリツイートし、拡散してしまう姿などは、そのまま見覚えのある、そして身に覚えのある構造のようにも思われます。

さて、こういう風に見覚えがあり、聞き覚えがあり、身に覚えがある。それでも物語は成立している。それがやはり野木亜紀子の凄いところだろう。

鳥肌が立つ瞬間

鳥肌が立つ瞬間が、前編と後編それぞれにあった。

まずは前編。光石研さん演じる猿渡がネットで炎上し、私生活を晒され、それに憤慨して主人公のいるイーストポストのオフィスを訪れた時。最後の顔のアップは、もうそれだけで多くを語る、鳥肌が立つシーンでした。

後編の方は、県知事選両候補が同じ場所で演説をする。そこに難民排斥派と受入派がやってきて、辺りがさながら暴動の様相を呈したシーンです。

実は放送から遅れてあのドラマを見た僕自身は、あのシーンがハロウィンの渋谷での様子を見ているようで、それにも驚いたのですが、やっぱりあそこはもう鳥肌が立つのみで、言葉にならない衝撃がありました。

「あるいはどこか遠くの戦争の話」

副題、「あるいはどこか遠くの戦争の話」は、それ自体、何か引き込まれる言葉です。

「戦争」とは何を意味しているのか、解釈は無限に存在するでしょう(その多義性が良作が良作たる所以の一端を担うものなのでしょう)。

例えば「戦争」を「県知事選」と見てもいい。沖縄県知事選はさながら「戦争」だったわけです。翁長前知事の遺志を継いだオール沖縄と、その構図の中ではさながら悪役の保守陣営。フェイクニュースの舞う壮絶な知事選でした。それはもう「戦争」でしょう。

或いは「戦争」を記者が真実と戦う様と見てもいい。ネットメディアは信用がならない。かと言って新聞やテレビも(殊に選挙期間中には)心もとない。席巻するフェイクニュースまとめサイト。そんな中、何とか真実を追い求めたい、という「戦争」とも受け取ることができる。

しかし個人的には、この「戦争」をそのまま「戦争」と受け取りたい。

CNNが湾岸戦争の空襲を生中継したことが思い出されるところですが、私たちは「戦争」を画面を通じて見るようになってしまった。

シリアでアサド政権軍と反政府軍イスラム国が血みどろの争いを繰り広げているのを、私たちは画面を通して見た。実はそれは画面を通して見た近所の風景と、距離としては変わらないのではないでしょうか。

最後の暴動と化した風景は、もはや「戦場」だった。画面を通して遠くの事だと思っていた戦争の姿がそこにはあった。私たちが画面ばかり見ている間に、その戦争は姿を変えてすぐそばにやって来た。それは「フェイクニュース」の問題なのかもしれないし、「あるいはどこか遠くの戦争の話」なのかもしれません。

野木亜紀子の可能性

野木亜紀子という脚本家は凄い。というのを改めて今回確認させられることになりました。

これだけ多くのテーマを取り込みながら、それが物語として面白い、そして見ていて鳥肌すら立たせるような魅力がある。

はじめて野木亜紀子さんの脚本作品を見たのはドラマ「空飛ぶ広報室」だったと思います。以後『図書館戦争』などいろいろ見ましたが、元々は原作の映像化の脚本をよくやっていらっしゃいました。

考えて見ればその時から「与えられた材料を活かし物語を成り立たせる」という点では前兆があったのでしょう。オリジナル作品の「アンナチュラル」でどんなものかと思って見てみると、原作の代わりにあらゆる社会問題を取り込んで、なおかつ説教くさくない、そういうドラマを生み出す方になっていらっしゃいました。

期待するのは、そういったドラマ、つまり、後世の人が見なおして「こんなことがあったのか」とある面では資料的に参考になる、しかしそれだけでなく、それでもやはり面白い、と感じさせるようなドラマです。

さしあたり、「獣になれない私たち」が録画溜まっているので、急いでみようと思います。(あまり数字は良くないようですが)

私的反幸福論

なぜこれを書くのか、まず『反‐幸福論』という本があるようですが、それを読んだわけではありません。また、三大幸福論と言われるような種の本を読んだからでもありません。

まず第一に近頃周囲の人が賢そうな記事を書いているのに(その知的水準にはとても及ばないながら)触発されたこと、第二に、「100分de名著」というテレビ番組での発言に気になる箇所があったからです。

今月の「100分de名著」はモンゴメリによる『赤毛のアン』を取り上げていました。案内人は茂木健一郎さんで、あの「脳」を連発するちょっと胡散臭い説明をしていたんですが、その中でもやっぱり気になったのは「幸福」についての言及でした。

アンは最終的に故郷を離れて大学に進学するという夢を、止むにやまれぬ事情で断念し、故郷に残るわけですが、それについて「普通で平凡な幸福に気がついた」みたいな言い方をするわけです。

やっぱり「知らない幸福」「気がつかない幸福」というのはある種あります。例えばベルンハルト・シュリンクの『朗読者』に出てくるハンナは文盲で、それゆえに自らの犯した過ちを理解しきれずそれなりに暮らしていくわけですが、刑務所の中で文字を覚え、自分のしたことに気がついたとき、自殺するわけです(あえて「自裁」と表現すべきかもしれません)。

このように「知らなければ幸福」というのはあるわけですが、果たしてそれが「本当の幸福」なのか、という問いは立てられます。そうすると「本当の幸福」とは何なのか、という哲学的な命題が立ち上がってくるわけです。

ここで「幸福」を「生きがい」と読み替えて、神谷恵美子が「生きがいとはやりたいこととやらなければならないことが一致したときに生まれる」という旨のことを言ったのをここであえて紹介してみるのも有用かもしれません。

今回は「私的反幸福論」ですから、「幸福」を論じる必要はないでしょうし、そのつもりもありません。最も僕個人は「幸福」というのはもう一種脳のホルモンの働き、ぐらいに割り切って考えてみてもいいと思っているのです。

今回徹底的に批判したいのは「平凡な毎日にある【幸福】」みたいな話です。この際、以下ではこの幸福観を嘲笑する意味合いを込めて【幸福】と表記したいと思います。

 

 

さて、例えば「自分には金がなくて恋人もなくてお先真っ暗。こんな自分は不幸だ。」と考える人がいるとします。

そんな人に【幸福】論者が「それでも一日三食食べられて、少なくとも今日明日の心配はしなくて良いのだから【幸福】でしょう」と言ったとする。

言われた当人は、もしかすると「確かにそのとおり、なんて自分は馬鹿だったんだ」と思うかもしれないですし、その結果新たな【幸福】を自覚するかもしれません。しかしそれは少し前の話に戻りますが「知らないという【幸福】」に準ずるものではないでしょうか。

というのもその人は「金もあって恋人もいて将来ずっと心配がない。自分は幸せだ、恵まれている。」という感覚を知らないで【幸福】と感じることになります。もちろんその先に更にそういった未来がやってくるかも知れない、けれど一応現段階ではメタ的に見れば仮初の【幸福】に浸っているということになるでしょう。

言ってみれば、ここですり替えが起こっているわけです。自分が「不幸だ」だとか「幸せとまでは言えない」と考えているのを、「平凡」を盾にとって【幸福】とすり替えるわけです。これと似た例を挙げたいと思います。

 

 

大学にはサークルというものがあることが多いですが、サークルの設立はそれほど難しいものではありません。やはりサークルを設立するくらいということであれば、きっと何かパッションのようなものがあるのでしょう。

野球をしたい、と思えば、野球サークルを設立するだろうし、将棋が好きだ、となれば、将棋サークルを設立するでしょう。こうしたサークルは当初はそうしたパッションを具体化するための「手段」として設立されることになります。

しかし多くのサークルは次第に「手段」としての役割を失っていきます。

過去に僕が行ったことのあるサークルは壮絶なもので、サークルの練習後、その日の練習の悪かった点を話し合います。いいところ、ではなく、悪いところ、というのが、いかにも「総括」と称して自己批判を行わせた連合赤軍を彷彿とさせるわけですが、そこにあるのは「活動」を重んじるのではない、「組織の自己目的化」の一側面でした。

多くの組織は「何かをするため」に設立されるわけですが、実際にはその組織の存続それ自体が「自己目的化」されるというすり替えが起こるわけです。

 

 

さらに幸福から離れて、この「組織」というのを「社会」と読み替えてみたいと思います。というのも、近頃「社会」というのものについて考える機会が多いからです。

きっかけは村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだからでした。「地球星人」を『新潮』で読んだときにも凄い、とは思いましたが、『コンビニ人間』の方が身につまされるものがあります。両方社会が「普通」とすること、つまり、ある程度の年齢で結婚し、子供を産み、というところに違和感を感じる主人公の物語です。

コンビニ人間の主人公は白羽という自分と共鳴する感覚を持つらしい男性を家に招き、共生していた場面が以下の部分です。

「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。でもね、僕を追いだしたら、ますます皆はあなたを裁く。だからあなたは僕を飼い続けるしかないんだ」

 白羽さんは薄く笑った。

「僕はずっと復讐したかったんだ。女という寄生虫になることが許されている奴等に。僕自身が寄生虫になってやるって、ずっと思っていたんですよ。僕は意地でも古倉さんに寄生し続けますよ」

ここに違和感があるわけです。白羽さんというのも、現状の社会のあり方に違和感を持っている。しかし、それをもってして主人公に語りかけるとき、主人公を糾弾する「普通の人間」の一員と化してしまっているように見えないでしょうか。

ここで考えられるのは「普通の人間」というのが必ずしもマジョリティと置き換えられる概念ではない、ということです。事実、この『コンビニ人間』は多くの人に共感をもって受け止められている、つまりマジョリティが「普通の人間」ではない、ということです。

普通とは何なのか、というのを偉そうに語ることはあえて避けていうならば、「普通というのは普通という感覚の中で再生産されるものである」ということが言えそうです。

コンビニ人間』に照らしてみれば、白羽さんは「普通の人間」ではないですが、「普通の人間」のセリフを代弁することで、他人に「普通」を強いているようになってしまいます。これはある種「再生産」と呼んでいいのではないでしょうか。

例えば法廷や図書館で「静かにしなくてはならない」という感覚と似ています。「静かにしてください」と書いてある場合もあるわけですが、一般には「周りが静かにしているから静かにする」ということで、静寂が「再生産」されているという捉え方ができます。

さて、これを「空気」と呼び変えてもいいのですが、「空気」というのを便利に使いすぎる節があると思いますから、やめておきます。

 

 

反幸福論、もとい反【幸福】論に戻ってみると、「普通で平凡な生活にある幸福に気づけ」という種の【幸福】観は、「幸福」をすり替え、それを「再生産」させようとする安直なものになるとしか思えません。

「不幸」の先にある、「満ち足りた幸福」を「知らないという幸福」に押し込めているようにしか思えず、そこには日常を自己目的化した陳腐な再生産しか見られないからです。

以上、タイピングのリハビリでした。

映画『サクラダリセット 前篇・後篇』

サクラダリセット 前篇

サクラダリセット 前篇

 
サクラダリセット 後篇

サクラダリセット 後篇

 

 「ゲーム的リアリズム」なる語が提起されて、それを基にして作品をそのように説明してみたり、或いはそれを逆に作品に生かすような流れがあるのだと思うが、この作品はその中でも典型だと思う。

と言いつつ、実は原作もアニメも見ていないので、この実写の限られた知識で色々言うしかない。

物語は住む人々が特別な能力を持つという街・咲良田。この手の「街」という範囲は、『仮面ライダーW』などにも「風都市」という形で登場する。というのは「大きな物語」が存立し得ない現代において、最も取りやすい大きな目的語が「街」なのだろう。『仮面ライダーW』では「風都を守る」というのが主人公の命題であり、本作では「咲良田を守る」というのが主題となる。

そんな街に住む浅井ケイには「記憶保持」という能力が与えられている。ここだけ聞くと頓珍漢で、「え? 記憶力が良いだけ?」と思ってしまいかねないが、そうではない。つまりこれは浅井ケイが「プレイヤー」であることを示す能力なのだ。

何かというと、この「記憶保持」が最も生かされる「リセット」という能力を考えて見ると分かる。この「リセット」という能力を持つのは春埼美空なのだが、この美空はケイの指示がなくては「リセット」ができない。また、「リセット」に付随して行われるセーブにもケイが必要だ。これはさながら、プレイヤーが「リセット」したり「セーブ」したりするのと酷似する。

そう考えると物語の見え方が「物語」から「クエスト」や「ミッション」の類に見えてくる。前篇で言えば「魔女と呼ばれる未来予知の能力を持つ女性を能力者を統制する管理局から救い出す」ことであり、後篇で言えば「咲良田から能力を消すという陰謀を阻止する」ことであった。

この点から二点に注目したい。

「リセット」と現実

「最近の若者は」と言われることがらはいくつかある。仕事ができないだの、すぐ帰るだの。その中の一つが「殺人事件」だと思う。

果して動機のない殺人事件が、最近の若者に特有で多いのかにはかなり疑問だが、「最近の若者は何を考えているか分からないから」などはよく聞く議論だ。

そんな中、殺人事件で現状を「リセット」しようとした若者などが現れ、「リセット症候群」という語もちらほら見え出した。かくいう自分自身も、高校進学と大学進学を契機に人間関係を「リセット」した口であり(前の関係を断絶したわけではないのだが)、身につまされる思いもある。

そんな中一時期、熱いキャラクターが「人生はリセットできねえんだ!」と叫ぶような作品が立て続いたわけだが、ここしばらくはそうではなくなったように見える。

例えば「Steins;Gate」がそうで、岡部倫太郎は何回だって「やり直す」わけだが、そこのパラレルワールドのロジックを持ち出すことで「実際には何も解決されていないのだ」という事情を背景に、逆説的に「実際の人生はやり直せない」ということを示唆する。あの作品を見て「人生をやり直したい」と思う人はかなり少ないだろう。

この「人生はリセットできねえんだ!」から「リセットするとこうなるけど何も救われてないんだ!」と言う方向になる。そして「リセットすると解決されるかもしれないけど、実際にはリセットが使えないから正直に生きよう」的に物語が展開していくのが本作ということになる。

「リセット」という概念は「タイムリープ」や「タイムスリップ」とは異なるので、そこには配慮の必要があるかもしれない……が、いくら何でも黒島結菜、時間を戻りすぎじゃないかな。

能力は「普通じゃない」か。

後篇にフィーチャーすると、物語は咲良田から能力を消そうとする浦地正宗との戦いに移る。

この浦地が「なぜ能力を消そうとするのか」と聞かれた時に「普通じゃないじゃない、それだけだよ」というように言う。実際には浦地の両親が咲良田の街の能力を保持するために眠らされている、みたいな事情が(多分)ある。

ただ「能力が普通じゃない」という話は、実はハッとさせられるところではないだろうか。つまり「能力」を個人に付加的なものと考え、その付加的なものを「普通じゃない」と見なすか、個人の中に取り込まれる一種の「個性」とするか。

「普通」って何なんだろう、という問いは、ここ数年あちこちで立てられ、「そんなものないのだ」と答えるなり、あちこちでそれなりの答えが導き出されている。しかし例えばマイナスに思われる障害などを「個性」と呼び、「普通」なんて気にしなくていい、のだとすれば、たとえ有利な能力であってもあくまで「個性」ということになるのではないか。

 

 

ということで、面白かったかと言われれば、うーん、そこそこ、という感じだと思うのだけれど、そういう展開上の特徴には考えさせられるところがあった。それでアニメを見たり漫画を読んだりするかと言われると……心底微妙と言わざるを得ない。何よりあのセリフの妙な「ブンガク」っぽさというか、いかにも感が、少し慣れないところでもある。

ドラマ「サバイバル・ウェディング」

冒頭を割いて吉沢亮の魅力を書き尽くしたいところですが、少し抑えます。それでも書かないわけにはいかないので、一段落だけお付き合いください。

最初に吉沢亮を見たのは「仮面ライダーフォーゼ」で、違う高校からやってきたミステリアスなキャラクターが、正体がバレた途端コメディチックになる。次に見たのは映画『オオカミ少女と黒王子』だったんだけれど、これは主演が二階堂ふみで、相手役が山崎賢人! 山崎賢人! 吉沢亮山崎賢人! なら、断然吉沢亮! と思っていた僕個人は、とても落ち込んだのでした。それからアミューズのハンサム・シリーズをよく見ていて、やっぱりイケメン! 美形! 尊い! と繰り返していたところ、近頃ポツポツ色々な映画で主演級を張るようになって、やっと! やっとこの役!

という感慨があった上での本作です。

タイトルから分かる通り、「結婚する」というのが明確なゴールとして示されているわけですが、ここ数年だと似ていたのは「ボク、運命の人です。」だろうか。あれは「運命」という陳腐化したエッセンスを逆手にとってコメディアレンジした完成度の高い作品だった。

もう少し遡れば「野ブタ。をプロデュース」とかもあるわけで、「結婚」というゴールを追求するような作品は存外に多い。

むしろ反対を張っていたのは「結婚しない」というドラマ。当時徐々に若者の未婚率の上昇が問題になっていて、それが「結婚できない」ではなく「結婚しない」という決断である、というのが取りざたされるようになった上での文脈だった。

当時第一話でそのグラフが紹介されていた。グラフ! と当時の私は戦慄した。以後そうで、フジテレビ系は「現代」を捉えた(とアピールしたがるような)ドラマが続いた。

一種これはポリティカル・コレクトネス的なのだと思う。「とりあえず結婚しとけ」的な流れへのアンチテーゼ。志は高いのだろうが、ドラマは高い志だけで作られるものではない。

例えば野木亜紀子の脚本は、ポリコレ的でも少し違う。「逃げるは恥だが役に立つ」は典型だと思う。「結婚」という概念を揺さぶったこともさることながら、そこに登場したゲイへの対応がまさにそれだった。

ゲイであると知ったら、驚くか、気味悪がるか、陰口をたたくか、現実ではそうなのだろうが、この作品では誰もが普通に通り過ぎる。それはポリコレ的で、「正しい」。

「結婚だけが正しいゴールではない」というのは、頭では誰しも分かっているポリコレ的な解答だろう。しかし多くの人は結婚した他人に「おめでとう」と言うのだし、未婚の他人に「結婚しないの?」と言う。この辺りは村田沙耶香の作品を読むと暴かれる感覚である。『コンビニ人間』など、そういう言わば「社会」としか呼ぶことのできない何かを描いた作品が目立つ。

その「何か」とは何なのか、はまだよく分からないし、ここでは本筋ではないのであまり深堀はしない。

じゃあ、そんなポリコレ的な流れにあって「サバイバル・ウェディング」にはどのような仕掛けが隠されているのだろうか。

というと、その答えは「資本主義」だと思う。

雑誌業界を描いたドラマとしては「ファーストクラス」なんかが取り上げられると思うのだが、やはりそこにあるのは、前月号の部数が如実に現れる「資本主義」的な側面だと思う。

正しく黒木さやかに宇佐美博人が伝授したのはマーケティングだった。「資本主義」的な社会の中で、男性を消費者とした場合、選択される女性たれと指導した。

もちろんこれは「女性の商品化!」だの「男の傲慢さの表れ!」だのいう批判を招きかねないのだが、この作品はそれを嘲笑する。「だって実際そうでしょ?」と。

そういうポリコレ的な男女平等がある前に、現実に我々が面している「選択」を媒介とした「結婚」という制度。「だってそうじゃん」とこのドラマは高尚な志を嘲笑う。

 

とは言いつつ、この作品が好ましいのは柏木祐一がさやかを選択するまえに、さやかが柏木を選択したことだった。「好きな男に好かれるためのマーケティング」であって、「男性から好かれるためのマーケティング」ではない。対象が絞られているし、その絞っている主体がさやかであることで、フェミニズム的な気持ち悪さを回避している。

もっと別の観点から言えば、このマーケティングは柏木から好かれるための「手段」に過ぎず、男性から選ばれるというような「目的」ではない、ということだと思う。

 

と、ここまで語れば避けられないのはインドの話題だと思う。

柏木のインド信仰ったらないのだけれど……ちなみに言うと柏木の父親・柏木惣一が言う経済観はだいぶトンチンカンで*1、この親子にはびっくりさせられるのですが、インドってそんなに素敵なところかしら、とは思う。

この辺り、柏木が「意識高い」人間であることを証す仕掛けなんだろう、ということで、あまり深入りしたくない。というのは、やっぱりここには一種のオリエンタリズムがあるのだろう。

 再び「結婚」の話題に戻ろう。「結婚」が果たして人間にとってどのような意味合いを持つことになるか。例えば平塚らいてうはこう言います。

 それから申し忘れましたが、昨日お母さんから結婚もしないで、若い男と同じ家に住むといふのはおかしい、子供でも出来た場合にはどうするかといふやうな御話もございましたが、私は現行の結婚制度に不満足な以上、そんな制度に従ひ、そんな法律によつて是認して貰ふやうな結婚はしたくないのです。私は夫だの妻だのといふ名だけにでもたまらない程の反感を有つて居ります。それに恋愛のない男女が同棲してゐるのならおかしいかもしれませんけれど、だから其場合にこそ他から認めてでも貰はねばならぬ必要があるかもしれませんけれど、恋愛のある男女が一つ家に住むといふことほど当然のことはなく、ふたりの間にさへ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまふまいと思ひます。(平塚らいてう「独立するに就いて両親に」(『青鞜』第四巻第二号(青鞜社、一九一四年二月)))

流石らいてう先生、という感じだろう。「現行の結婚制度に不満足」であり、「そんな制度に従」うことはできないので、「法律によつて是認して貰うような結婚はしたくない」というのだ。

結婚とは少なくとも現下の社会システムにおいて、国家にある男女間の恋愛関係を届け出て、両者の経済的共生関係を法的なものにすることでしょう。それに対して「恋愛の愛男女が一つ家に住む」のは「当然」だから、「形式的な結婚などはどうでもかまふまい」というらいてうの発言は、あくまでその通りのように思われる。

ではそんな「結婚」をハッピーエンドと見なすことができるか、あるいは「束縛」への道だと考えるかは人によって異なる。

さて、ここが面白いところだと思う。

僕も昔リレー小説のようなものをやったことがある。かなり楽しかったのでその後も何度かやろうとしたことがあるのだが(できていないが)、何が楽しいかと言えば、他人が自分と同じものを違うように見ていることが実感できる点だ。

「結婚」をどのように捉えるのか。「ボク、運命の人です。」なんかはそれが「子供を作る」ないし「世界を救う」にと接続することで、「結婚」それ自体を空洞化しているようにも思える。つまり「結婚」を素晴らしいものに仕立て上げるべきではない、という感覚が働いていたのだろう。

あなたのことはそれほど」なんかを見てみると、その「結婚」が「束縛」として機能していたことが分かる。「カルテット」も然りだろうか。

そうした中で「サバイバル・ウェディング」はあくまで「ウェディング」がゴールで、そこに向かっていく。ではその「ウェディング」をどのように扱うのか。

例えばそこには「ボク、運命の人です。」のような空洞化された「結婚」はない。

面白いのは、そこに「インドでの新生活」という要素が付け加わり、「私が養います」と言ってのけるさやかがいることで、「結婚」の先にある「生活」に焦点が合わされていることだと思う。

この作品の面白さは、むしろその「生活」が透いて見えるところではないだろうか。

*1:柏木惣一は金融緩和反対派、外国人労働者反対派なわけだけれど、金融緩和(もといマネタリズム)政策なしで経済が上手くいくならとっくに自民党政権のバラマキで経済がよく上手くいっているはずで、外国人労働者は既に入ってきてしまっているし、企業経営者は概ねそれに賛成している。