拝啓「死にたい」と言わせない社会へ

先日ふと死にたいというようなツイートをすると、それが原因でアカウントが凍結された。それを凍結と呼んで良いのか分からないが、該当のツイートを削除することを強要された上に、12時間アカウントが閲覧以外で利用できなかった。

該当のツイートの内容は上述の通り消してしまったので、実はもう分からないのだけれど、「死にたい」ということを書いていたのだろう。それも、今までも書いたことがないわけではなかったので、かなり決定的な書き方をしていたのだと思う。(じゃないと納得できない)

サクッと言えば、「それで誰かに迷惑をかけましたか?」という感じがする。

「死にたい」と呟いている。確かにそれは目障りだろう。しかしTwitterのタイムラインは常に目障りなツイートが並んでいるものだし、日本で今日この日もたくさんの人が自らの命を絶つことを選んでいる現状の一方で、「死にたい」と呟くとそれが削除されていく、ということに違和感を感じはしないか。

この違和感は、かつてどこかでチラと聞いた「平壌では障害者と出会わない」という種のものと通じると思う。見えなければいいのか?

もちろん自傷行為に走るのは良くない。僕個人の問題だが、リストカットの画像や、それを仄めかす画像がTwitterで回ってきたときは、そのアカウントをブロックしたり、程度によっては通報することもある。けれど、漠然と、「死にたい」と呟くことは、そんなに「悪い」ことだろうか。

もちろん答えは「悪い」のだろう。「死にたいなんて言っちゃダメ! きっとこれから生きてれば楽しいことがあるよ! がんばろう!」と優しい声で慰めてくれるのが聞こえてくるようだ。だが、その慰めに本質的にどのような意味があるのか?

今この国で、あるいは世界的に、「死にたい」と考えることが難しくなっている。「死にたい」と検索すれば、「まずは相談して」みたいな感じでNPOの電話番号が表示される。まともに「死にたい」と思うことさえ許容してくれない。

ここで「死にたい」と思う人達によって芸術は大成してきたのだ、太宰を見てみろ、芥川を見てみろ、三島を、川端を、と言ってみてもいい、のだが、そうすると肝心の自分が入らない気がするので、あまり論は広げないでおく。

ただ、「死にたい」というのがある種「メメントモリ」の変種であることは理解されてもいいだろうと思う。

「死にたい」と考えるとき、「いつ死のうか」と考える。それまでに何かやり残したことはなかったろうか、遺書には何と書くべきだろうか。きっと家族は悲しむだろうから何か書いていってやらなくてはならない。

本当に死ぬのかは、「死にたい」と思うこととは明確に「別問題」である。

それなのに、それなのにだ。「死にたい」に対して「死んじゃダメ」などと言ってみろ。「自分はしてはいけないことを願ってしまっている」と罪悪感を抱いた人は、もう救われない。きっと電話もしない。ネットに頼ることもしない。深々と自分の弱くて脆い内面を直視し、羞恥心と罪悪感の中で、今度は誰にも悟られることないように「死にたい」と呟くのだ。Twitterではない、ボソッと口元で。誰にも聞こえない音量で。

「死にたいなんて言っちゃダメ」と言う奴らが、同じ口で「いじめられている子達は学校に行かなくてもいい、逃げ場所はたくさんあるんだよ」などと言う。馬鹿馬鹿しい話だ。

自殺志願者にとって「死にたい」と独りごちることがその人にとって「逃げ場所」であることになぜ気がつかない? 「死にたい」が永遠に「死にたい」であり続ける限り、実際に死ぬことなどありはしない。その中に自分を閉じ込め、何とか懸命に生きようとしている姿に対して「死にたいなんて言わないで」だ? 「死にたい」を否定された自殺志願者は、いわばストッパーを失ったも同然だろう。

そもそも電話で相談に一体どんな意味があるのか。電話してみたことはないから分からないが、老後のボランティアで若い人の話を聞く、みたいなスタンスの人たちが、毎回コロコロと担当を変え、「いかにも」に返答してくれたって、全ての人が救われるわけではない。

メールで相談することができる場合もある。自分も一時期酷く精神がやられていて、殆んど逆流性食道炎みたいになっていたときに東京カウンセルという無料でメールを通したカウンセリングを受けられる、というのを試したことがある。楽になったか? いや、全くだ。

「今初めてご家族のことを話してくださいましたね。ここまで話したがらないなんて、きっとご家族のことがあなたの精神状況に影響しているんでしょう」

何を言うか。お前が今の今まで訊かなかったから答えなかっただけじゃないか。

もちろんメールじゃ分からないこともたくさんあるし、一日一通メールをするだけというのに端から難があるのだろう。じゃあ精神科に行こうか。ダメだ、保険証を通じて家族にバレる。地域の保健福祉センターにはそういう対応をしてくれるところがある。無料だ。普通のカウンセリングは50分5,000円を取ったりするから、良心的ということだろう。でもそうすると、まるで「病人」じゃないか。

ふと「死にたい」と呟き、線路に飛び降りたいと願い、首を吊りたいと思う。それはタダだ。そのことの一体何がいけないのか? そう考え続ける限り、実際に死んだりはしないのだから。

自殺者を減らしたいなら真っ先にすべきは「自殺しないで」と自殺志願者に言うことじゃない。自殺へ導かせることになった環境を変えることだろう。

失業率と自殺者数に相関があるなら景気を良くしろ、失業率を下げろ。いじめを苦にして自殺するなら、いじめを素早く察知できる体制を整えろ。そういう問題だろう?

自殺しそうな人の自殺を思いとどまらせるのは、効果の有無に関わらず「いいこと」に違いあるまい。けれど、それは解決策ではなく、大勢の「いい人」の自己満足であり、「死ぬのを止めました」というアリバイでしかない。けれど人は死に続けるだろう。「死にたい」と願う人は、決して「いい人」を求めてはいない。「一緒に死のう」と言ってくれる人を求めているのでもない。反対に「お前なんて死んでしまえばいい、そうだ、自殺しろ」と唆す人を求めているのでもない。

「死にたい」と言ったことを誰かが覚えてくれていて、それでも世界は何事も無かったかのように動いていく、タイムラインはつまらないギャグと聞いていない誰かの今の報告で埋め尽くされる。それでいい。そんな社会で「死にたい」とは思わない。自分が消えても何も変わらない社会で、自分が消えようとは思わない。最後に歴史に名を刻むようなことをしよう、とあらぬ方向にその意思が向いてしまう場合を除いて、良心が残る限り、「死ぬのは少しの間待っておこう」と思う。それでいいじゃないか。なぜこの社会では「死にたい」と言うことが許されないのだろうか?

アニメ「アンゴルモア 元寇合戦記」

一応アニメの最終話を迎えたので、書いておこうと思います。原作がどのような展開で、それがどういう風な評価を得ているのか、分かりません。それを踏まえて、ご覧いただければと思います。

アニメ単体で言えば、それほど評価できないだろう、と思います。

どうして評価できない、となるかと言うと、やはりいくら何でも人が死にすぎる。

勿論、元寇は日本が苦戦を強いられた戦いであって、その結末も、「日本が勝利した」というよりも「凌いだ」という方が正しいのでしょうし、土地を得られたわけではないものの多くの人命が失われたことを考えれば「凌いだ」のかすら怪しいところです。

一方、戦争の凄惨さを描くとして、「戦争の悲惨さ」だけを描くのでは意味がない。

反復される死と「一所懸命」の言葉は、言わば「武士道とは死ぬことと見つけたり」的なニュアンスを持って感じ取られ、それが秋の落ち葉と重なって描写される。

敵のモンゴル兵(高麗兵を含め)が野蛮に描かれるのは、本当に野蛮なのかもしれないが、日本人は「一所懸命」に土地を守ろうとしているというのと、モンゴル兵が野蛮に人を殺すのが対比されるわけですが、では我々はそこから何を得ればいいのか。

全ての物語には教訓があるべきだ、と数周遅れの啓蒙主義を振りかざすつもりはないが、作品が問いかける命題が無い、というのは見ていて辛いものがある。

「100分 de 名著」という番組でウンベルト・エーコの『薔薇の名前』というのが取り上げられていて、そのテキストに次のような文章がある。

エーコは六二年の『開かれた作品』のなかで、読者を大きく「経験的読者」と「モデル読者」という二つのカテゴリーに分類しています。本文中でも触れることになりますが、経験的読者とは、「この小説はおもしろいな」「悲しいな」など素直に反応しながら物語を読み進める読者のこと。モデル読者とは、この小説に作者はどんな戦略を盛り込んでいるのか、またその戦略にはどんな意図があるのか、といったことにまで思いをめぐらせる読者のことです。簡単に言えば、自分の感情のままに読む読者と、小難しく小説を読んでしまう読者、とも言えるかもしれません。(和田忠彦『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』(NHK出版、2018年9月))

本来はウンベルト・エーコの『開かれた作品』を直接引くべきなのだろうが、今回はご容赦願いたい。ただ、この「経験的読者」と「モデル読者」というのはかなり面白い分類だと思う。そしてかなり実感に沿った分類だと思う。

メタ的に演技やストーリーを評価してしまう「モデル読者」というのはいる。

ここから「アンゴルモア」の方に戻ると、このアニメは「モデル読者」もとい「モデル視聴者」を排除しているのではないか。

 

 

「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、ある意味では言い得ているのかもしれないが、我々はそれだけでないことを知っている。

歴史の教科書に恐らく必ず掲載されているであろう『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が描かせたものだ。なぜか、と言えば、そこに自らの戦いぶりを描かせることで、恩賞を要求したものである。

歴史の授業で学んだはずだが、鎌倉幕府滅亡の一因は、この御家人の奉公に対して恩賞が支払えなくなったところにある。

ここから何が分かるかと言えば、別に御家人は「一所懸命」に戦っていたわけではないことだ。

この物語はその、つまり「仕事として戦う」という職業軍人的側面を、舞台を対馬に置くことで避けている。

結果濃厚な「武士道とは死ぬことと見つけたり」が抽出される。

人が死ぬ、武士道を貫く。さて、そこに一体何が見出せるのか。少なくとも自分には分からなかった。

冷笑と糾弾の限界

先日辻村深月の『凍りのくじら』を読みました。

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

 

実はここ数ヶ月、辻村深月作品を初期から順番に読んでいこうというのをやっています。それでやっと『凍りのくじら』だと言うのだから、その進捗が芳しくないらしいということはお察しいただけるだろうと思います。

私がこの小説を読みながら、直ちに思い出したのは朝井リョウの『何者』でした。朝井リョウに関しては、ほとんど同時代的に追ってきたという自負があって、私の好きな作家の一人でもあります。

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

何で思い出したのか、と思われるかもしれません。何より『凍りのくじら』の主人公は芦沢理帆子という女子高生で、『何者』は二宮拓人という男子大学生です。

前者の方は父がおらず、母が入院しているということ以外には基本的に普通です。何よりの特徴は、この作品は冒頭でおそらく理帆子らしい女性が父と同じく写真家としてインタビューを受けているシーンがあることで、この物語の結末に一応の安心感がある、ということでしょうか。危うさがない、と言い換えることもできます。そこでこの物語の主軸は、どうやらその理帆子が撮影したらしい写真の被写体になった男性は誰なのか、という方に推移するということになります。

後者の方は、就活生たちを描いた物語で、確かに飛び抜けたアクシデントではないのだけれども、ただの日常というよりかは「就活という日常」を描いた、という感じがある。就活を通して自分を考え、自分が分からなくなる、いわば実存の問題にぶつかるというような点は『桐島、部活辞めるってよ』などにも見られる傾向です。

さて、そこに共通しているのは何かというと、主人公が両者とも「冷笑的」であるという点です。

なぜか周囲よりも一段高いところにいるように振る舞い、そしてそれを俯瞰して「冷笑的」に批評を下す。もちろんどちらの主人公も、それを明らかにしてしまえば周囲から嫌われるに決まっていますから一応はそれを隠します。

どう隠すかというと『凍りのくじら』の理帆子は周囲の人物に「SF」になぞらえた評価を下すのだけれども、それは絶対に漏らさない。『何者』は「何者」というアカウント名のTwitterで周囲への批評を呟く。

では問題はこう推移していきます。つまり、「他人に批評を下すことなんてできるのか」ということです。

より感情的に言えば、「偉そうにしちゃって、あんたってそんなに偉いの? 本当はみんなと同じだし、もしかしたらもっとがむしゃらに頑張ってる他の人の方が偉いんじゃないの?」ということになります。実際、これに似たようなことを『何者』の二宮拓人は向けられることになります。「糾弾」です。

『何者』が直木賞受賞作にまでなったのは、そして映画化され、多くの人の目に、あらゆる形で触れるようになったのは、この「糾弾」が現代においては多くの人に当てはまってしまうからなのではないかと思います。

本質的に人間は他者に批評を下すことなどできない、その不可能性は今に始まった問題ではありません。例えば夏目漱石は人間社会を批評するときに『吾輩は猫である』という作品では「猫」が人間を批評するというあべこべの関係が面白い作品になっている。本質的な仕組みはバフチンの言うカーニバルと同じです。

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

けれど現在ではそれができるようになってしまった。できる、というのは能力的に、ということではなく、状況的に、という意味です。つまり本当は他者を批評することなんてあってはいけないのだけれど、現代人はそれをしてしまうし、それができる状況が整えられてしまった。それがインターネットではないかと思います。

引きこもり、などが社会問題になっていた全盛からは既に時代を重ねていますが、インターネットに掲示板というコミュニティなどができるようになると、そこに入り浸る人は、インターネット外のいわば「俗世」から離脱し、一種仙人のように振る舞う。そして下界のことに対して、軽く馬鹿にしながら批評を加えていく。もちろんそこには、一般にそうした人々が「オタク」などと呼ばれて蔑まれてきたことへのルサンチマンがあるのでしょう。この「軽く馬鹿にしながら」というのが「冷笑的」という点に繋がっていく。

少し脱線すると、これが特に顕著に現れたのが、ネトウヨ界隈ということになります。インターネットの世界を上位に、それ以外の「俗世」を下位に置いた「冷笑的」世界観は、そのまま拡張され、日本を上位に、特定アジア(中国・韓国・北朝鮮)を下位に置いた形へと到達します。そしてそうした国々に対して、偉そうな批評を下すのです。

現在では少しネトウヨのあり方も変わってきて、小馬鹿にした感じの「冷笑的」批評が、なんだか感情的なものになってきている感も否めません。その背景には、フジテレビの前でのデモの一応の成功があり、朝日新聞に所謂慰安婦問題での誤報を認めさせたという自負があったからでしょう。

さて、この「冷笑的」批評は、インターネットの拡充とともに日の目をみることになった、のではないでしょうか。さやわかなどがネットから登場したように(さやわかが「冷笑的」な批評家だと言いたいのではなくて)、ネットでは大学教授や「批評家」のような人でなくても、ある程度言説を多くの人のもとへ届けることができるようになった。これも更に「冷笑的」な素振りを広めることになった一端でしょう。

ここでもう少しだけ脱線を許していただけるのであれば、ゆとり教育との関わりを考えたいところです。ゆとり教育の本質がなんだったのか、を考えた人は山のようにいるでしょうが、例えば「総合的な学習の時間」などに代表されるように「何でもできる」時間が重視されたり、あるいはテストで測るようなものではない学力にも目が向けられるようになった。そうなるとそういうのをどう測るのかというと、例えば「感想」を書かせたりするのです。

ですから私は「ゆとり教育の本質とは」と訊かれるようなことがあれば「感想を書くこと」と答えようと思っています。それほど山ほど感想を書かされるのです。

しかし考えてみると、小学5年生や6年生になると、大体学校の先生の好みというのがわかってくる。どういう子が先生の寵愛を受けられて、どうだとダメなのかがわかってくる。そうするとそうした「感想」も先生に媚びたものになっていくわけです。ではどうやれば媚びた感想が書けるのか。いくつかの定型句を挿入することはもちろん、何より、自己・対象・教師を客観的に見て、メタ的に分析することです。

例えば、SNSの利用法についての授業を受けたとします。その場合、自らがどれだけSNSと関わりあっているのかをメタ的に確認します。次に「SNSの利用法」というテーマから、当然そこで伝えたいのは「SNSは注意を払って利用する」ということなわけですから、自分の意見がそれとは違っても、その内容が入っていなくてはいけません。最後に教師はどう書けば喜ぶのかによって、その程度が変わります。お年寄りで、インターネットに必要以上の警戒感を抱いているタイプであれば「SNSはやめようと思った」と書けばいいかもしれないし、若い先生であれば「SNSには鍵をつけて、投稿の前にもう一度確認してから云々」と書けばいいかもしれません。

こうしてゆとり教育が育成したのは、豊かな人間力を持った人間でも何でもなくて、サービス精神旺盛な、あるいは道化を演じられるような「冷笑的」な批評家なわけです。

ここでやっと『凍りのくじら』に話を戻しましょう。

理帆子は批評家です。周囲の人々に対して「SF」というアルファベットから批評を下す。一般に「SF」といえば「Science Fiction」なのですが、ここでは理帆子が好きで、なおかつ父も好きだった藤子・F・不二雄がそれを「Sukoshi Fushigina(少し・不思議な)」としたことにかこつけたものです。

つまり理帆子は自らで「冷笑的」に批評しているようでいながら、実際には藤子・F・不二雄や、彼の著作である『ドラえもん』というオーソリティを参照する形で批評を下す。いわば虎の威を借る狐、のように見えます。

ここが読んでいて「痛い」箇所です。つまり、彼女は他者に対してたった2語で批評を下す。しかもそのうち1語は「Sukoshi(少し)」と決まっているので、実質的には「F」から始まる1語です。

彼女は観察者として得意になって内心そうやって他人を評価するのだけれど、その背景には藤子・F・不二雄がいる。

彼女が自分自身に下した評価は、と言えば「少し・不在」でした。どこにいてもそれが自分の場所だとは感じられない、というのがその理由だそうですが、何とも自己陶酔に満ちてはいないでしょうか。一匹狼で寂しい私、という自己陶酔からは、確かな自己肯定感が読み取れます。

その発露が、彼女の元彼・若尾大紀です。彼女が若尾に対して下した評価というのは当初は「少し・不自由」でした。立派な夢を抱くのだけれど、それを実行に移すようなことはできない。思想家ではあるけれど活動家ではない、といった具合でしょうか。

そんな彼は別れてからも理帆子に連絡を取ってくる。周囲は縁を切るよう言いますが、理帆子にはそれができません。なぜなら理帆子の批評では、若尾はストーカーになったり、暴走したりすることができない人間、ということになっているからです。

結論から言えば、彼はストーカーになるし、理帆子の好意を奪っていると感じられた松永郁也という小学4年生の少年を拉致することになります。つまり、理帆子の批評を裏切る形で、彼は行動できてしまうのです。

ではどうして理帆子は若尾を早々に切ることができなかったのか。それは若尾が可哀そう、という類のものではなくて、若尾は危険ではないと判断した自分の批評を守るため、もっと言えば、やはり自己陶酔の産物ではないでしょうか。

一人称小説には二つの場合が考えられます。そしてそれは交互に入り組んでいます。「自己陶酔」と「自己否定」です。これは仏教で言うところの「有愛」と「無有愛」と対応すると考えて良いだろうと思います。前者は「生き続けたい、死にたくない」という欲求で、後者は「死んでしまいたい」という欲求です。これは個人的によく分かる概念で、おそらく現代の自殺者もこの欲望のバランスで語られるべきだと思うのですが、今回は踏み込まないでおきます。

例えば太宰治の『人間失格』などを見ると、題から分かる通り、ゴールは「自己否定」になります。物語は「自己否定」の根拠を辿っていく具合に展開していくわけです。

人間失格 (新潮文庫)

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自己陶酔型の一人称としては、例えばこのブログでも数度触れた北条裕子の「美しい顔」の冒頭はまさにそれですし(後半に自己否定型に接近していくにせよ)、村田沙耶香の『地球星人』にもそれに近いものを感じます。

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

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地球星人

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新潮 2018年 05月号

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『凍りのくじら』に戻ると、その背景にあるのは畢竟理帆子の自己陶酔なのです。この観点で見れば『何者』も二宮拓人の自己陶酔を描いていると言えます。

ただ『何者』の自己陶酔は、最終的に暴かれ、糾弾される。彼の自己陶酔は、他者への「冷笑的」批評としてTwitterという形で具現化していて、それが「知られていた」という形で自己陶酔が崩れていく。そして彼は最終的に批評家としての匿名性という特権を剥奪されるわけです。

では『凍りのくじら』はどうだったのか、というと、その批評が覆される仕掛けが2つあります。1つ目は前述の若尾についての評価が裏切られる、という点。2つ目が松永郁也に対する「少し・不足」と言う評価が、大きくなった彼自身によって訂正される点です。

これだけでは心もとない、というのが正直なところです。

つまり、「自己陶酔」を読まされるのでは、例えば夢見がちな少女の日記を読んでいるのと変わらないわけで、それが否定されなくてはいけない。必ずしもそれが「糾弾」である必要は無いですが、「お前は特別じゃない」という仕掛けがほしくなるところです。しかしこの作品には、それが決定的に欠けています。

だから低く評価したい、というのとは違いますが、少なくとも「冷笑的」態度を看過してしまうのはどうだろうと思います。

では、なぜ辻村深月は『凍りのくじら』の中で理帆子の自己陶酔を「糾弾」することができなかったのでしょう。

結論は、この理帆子が、畢竟辻村深月まさにその人だからではないかと思うのです。

辻村深月は、この小説で、まさしく自分自身の分身である理帆子を糾弾できなかった。それは自分自身を糾弾することと同じことになってしまうからです。

上記に「自己陶酔型」として挙げた例を見てみましょう。

北条裕子「美しい顔」の主人公サナエに、作者・北条裕子自身が重ねられているのはおよそ間違いないでしょう。そしてそのことは石原千秋産経新聞文芸時評で指摘していた通りです。しかしサナエは斎藤という同じ避難所の女性に正しく「糾弾」され、その自己陶酔の奥に潜む自己否定を暴かれてしまう。

村田沙耶香の『地球星人』はもう少し難しい構造になっていて、主人公・奈月は自己陶酔の末、自らが魔法少女であるとの意識に目覚め、最終的には自らもポハピピンポボピア星人に「感染」しているという意識を抱きます。もちろんそんなはずはないし、「人の子なのだから人」だと読者は知っている。なので読むと「何を言っているんだ」と思い、読者は心の中で奈月を糾弾します。

しかし『地球星人』で「糾弾」されるのは、その書名の通り「地球星人」なのです。社会に出て働き、結婚してセックスして子供を作る、いわば「工場」として運命づけられた「地球星人」を、合理的という名のもとに、却って人間らしさを取り戻した奈月たちが「糾弾」するのです。

読者を「糾弾」する、という仕掛けは、「美しい顔」にも確かにあって、「お前たちだって被災地をエンタメとして消費しただろ?」と言いたいであろうことが、書いてなくても伝わってくるようになっています。

では『凍りのくじら』は? というと、全面的な自己陶酔・自己肯定が描かれていて、そこに不足を感じないではいられないのです。そしてそこに「冷笑の限界」を見出されるように思います。

さて、これからも多くの「冷笑的」一人称小説が生み出されることでしょう。むしろ期待したいのは、それがどのように「糾弾」されるのか、勘違い批評家が駆逐されるのかです。

それと同時に、自分がその糾弾・駆逐の対象とならないように(もう遅いかもしれませんが)、細心の注意を払っていきたいと思います。

raku-rodan.hatenablog.com

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映画『ミッドナイト・イン・パリ』

 

 

アカデミー賞脚本賞作品。

脚本賞だけ?」と思わないこともないが、見ると納得する。

舞台はパリで、アメリカでそこそこ売れている脚本家のギルが、婚約者と共にパリにやってくる。ギルはパリが気に入ってしまって移住を婚約者・イネスに提案するも、イネスはそれを突っぱねる。

そんなギルは、毎晩深夜になるとやってくる古めかしい車に乗って、夜な夜な1920年代のパリへ赴く旅を繰り返すのだった。

この映画自体が、もうシュルレアリスムの具現化な感じがあるのだが、訪れる先もシュルレアリスムの時代で、いかにも難しい。

ただ、物書きとしてギルはこの時代を「黄金時代」だと認識していたことは確かで、ピカソなり、フィッツジェラルドなり、色々な「先人たち」が登場する。

日本でも『文豪ストレイドッグス』などがある。文学において、作者の姿勢から作品を分析することは、テクスト論到来まで普通だったろうし、現在でも国文学の古典文学研究などでは普通のことである。言わば「作者を通して作品を解釈する」という立場である。けれど、この映画なり、『文豪ストレイドッグス』がやっているのは、「作品を通して作者を解釈する」ということであって、それがどれほど妥当なのかは少し難しい。

結局この映画でも、そのあたりはかなり戯画的になる(あるいは好意的に表現すると「シュルレアリスム的に」)。

アカデミー賞脚本賞「しか」とれなかったのもその辺なのだろう。歴史上の人物は、多分実際の姿そっくりに造形されているのだが、言わば「モノマネ芸人」の具合が強くて、演技も上手とは言えない(というのが日本人でも分かる)。

ダリなんて、会ってもサイのことしか言わないのだが、そこまで戯画的になってしまうと、やっぱりコメディという感じがする。

戯画的、にせよ、シュルレアリスム、にせよ、この作品の特徴は主人公が脚本家であり、小説家志望であり、実際に彼が小説を書く過程が、映画の進行に寄り添って描かれる点である。

こうなるとすっかり困ってしまうのは、我々はこの主人公を信用できなくなるのである。つまり、この映画はもしかするとこの主人公の書いた小説の具現化なのかもしれない、だとか、やはり主人公は「芸術家特有に」おかしくなっていて、この映画もその一部なのかもしれない、だとか。

「芸術家」と「市民」の対立を描いた小説家に、お隣ドイツのトーマス・マンなんかがいるわけだが、『トニオ・クレーゲル』が「芸術家としてしか生きていけず、市民になりきれない諦念」をネガティブに描いたのと比べると、こちらはかなりポジティブだ。例えば、「あいつらぶっ飛んでるよ!」みたいな感じに。

信用ならない主人公は、尊敬する芸術家と会う。自作についてアドバイスをもらうことを躊躇っていた彼も、歴史上の偉人にはそれをためらわない。

この、過去賛美はパリ賛美と重なっておもむろに響く。殊に日本でもここ最近、「脱成長」といった見地から、「江戸時代に戻ろう」ととんでもないことを言いはじめる人たちが左側にいたりするし、「明治時代に戻ろう」と言う右側の人間はお馴染みだろう。そんな彼らに、ギルのセリフが響くはずだ。

“現在”って不満なものなんだ

それが人生だから

まさしくそうなんだと思うのだが、つまり、「あの輝かしい時代に戻ろう」的な言説は、「現在」だからこそ存立しうるのであって、「現在」から「過去」を回顧的に望んで価値付与を行うからそんな言説が生まれる。

この映画がまさにそうであるように、仮に我々が「江戸時代」なり「明治時代」なりに戻ったとして、我々はさらに古い時代に価値を見出すのだろう。我々はどこにたどり着くかと言えば、西洋風に言うところの「未開社会」である。原始共産制、ということでは理想的なのかもしれないけれど。

一方、輝かしい時代を未来に求める思想もあるだろう。手塚治虫以来のSFの系統などそうかもしれない。最近はその勢いが萎んできて、むしろ未来を描くときにはディストピアを描くのが普通、みたいになってきているが、その敗北主義は置いておいて、だから反動で過去賛美に向かっては意味がない。

余談だが、個人的には「存在した過去」なんていうものは認めるべきではないと思う。むしろ「過去は存在する」と現在形で過去を認めたほうが、ずっと楽になる。なぜなら、「存在した」なんていうと、現状は「存在しない」ものを考えなくてはならず、面倒臭いから。

と、考えると、この映画は、ギルが「存在する過去」に訪問するから面白い。彼は「現在にはないもの」に目を輝かせるのではなく、「過去にあるもの」に目を奪われる。これって、同じようで少し違うと思う。

何より、何よりパリという街は綺麗だし、パリという街の深夜にこれだけのファンタジーを見出すのも理解できる。そしてこの物語が、たったの90分少々にまとまっていて、大変心地よいのも、パリという街のおかげだろう。

これが東京であれば、街並みの変貌に驚いているだけで1時間くらい時間を要しそうだ。

『orange』色の後悔はなぜ恋愛漫画になるのか。

高野苺さんによる『orange』という漫画があります。数年前に相次いでアニメ化、実写映画化されたこともあり、それほど知名度が低い作品ではないと思います。

作品の骨子はこのようです。

高宮菜穂、須和弘人、村坂あずさ、茅野貴子、萩田朔らの通う長野県松本市の高校に、成瀬翔という転校生がやってきます。しかし実はその日の朝、菜穂は自分からの手紙が届いていて、その中には10年後の未来からのメッセージが託されていました。この成瀬翔が自殺してしまうので、それを止めてほしいというのです。菜穂は手紙の内容が本当であると確信すると、翔の自殺を止めるために奮闘します。

「10年後の未来からの手紙」と言うと、その途端、ある種のゲーム的リアリズムを想定なさる方もいるかもしれません。確かに、10年後のシーンが描かれることで、「その未来を避ける選択をする」という意味でのゲーム的リアリズムが存立するようにも思えます。

ただし決定的に違うのは、パラレルワールドという世界が導入されることで、手紙を出した10年後の自分たちの未来は変わらない宿命の元で、別のパラレルワールドを選択する、という形式をとることで、所謂タイムリープ的な「何度も繰り返す」的な性質を免れていることです。

と言うと、『シュタインズ・ゲートSTEINS;GATE)』は違うのか、という話になりそうですが、あの作品では岡部倫太郎にリーディングシュタイナーという能力が付与されることで、岡部倫太郎自身が自覚的に未来を選択できる。一方『orange』で手紙を出した10年後の登場人物たちは、その結果を確かめようがないため、一種投げっぱなし、ということになります。*1

さて、そうなるとこの物語は「成瀬翔を自殺させるな」というのが命題になってしまって、恋愛漫画ではなくなるように思えます。しかもそこに未来からの手紙が届くのですから、その命題は誤ることがないようにすら思えるのです。

しかし実際には、この漫画は十分恋愛漫画であり(もちろんそれと同時に青春漫画でもあるとしても)、この手紙はそれほど絶対的にはなりません。その点について、少し体系的に書いてみよう、というのが今回の目論見です。

 

 

まずこの物語における危うさから書き始めたいと思います。それは大きく二つあって、一つ目が「情報の非対称性」であり、二つ目が「テアゲル的関係」です。

一つ目の「情報の非対称性」というのは、未来からの手紙のことを指します。つまり主だった登場人物6人の中で、翔を除く5人は、翔が自殺する、という未来を知っていて、翔だけがそれを知らない、ということになるのです。

このような「情報の非対称性」は一般に上下関係を固定させます。具体的に言えば、診察室における医者と患者の関係は、医者は患者よりも医学的な知識を持っており、検査などを経ると患者以上に患者の身体に詳しくなる、という情報の非対称性がもたらした上下関係です。教室における教師と生徒の関係も、例えば教師が「この計算の答えは?」と聞いた時、生徒は一生懸命計算するけれど、教師はその答えを知っている、という情報の非対称性がまさしく「先に生まれた」者としての教師と、生徒の上下関係を固定させているのです。

となると、翔と他の5人の間に上下関係が固定されてしまいかねない。例では「診察室における」「教室における」と空間を固定しましたが、実は本作も無意図的にだとは思いますが「長野県松本市」という空間が固定されることで、ますます上下関係の固定に拍車がかかっています。

二つ目が、「テアゲル的関係」です。そもそもこの物語は「翔を助け〈テアゲル〉」という物語であって、実はこの時点で上下関係が固定されてしまっているのです。

一種のパターナリズム、と思われるかもしれませんが、そこまで言う必要はないだろうと思います。よりライトなニュアンスで、「テアゲル的」程度の呼称で問題ないと思います。

その好例が、作中における「応援」という言葉です。一般的にここ最近の少女漫画では、恋愛における「応援するね」といったようなセリフは忌避されてきました。「応援」というのがあまりに抽象的で、意味を感じられないからで、なおかつ二人の恋愛関係の間に余所者が我が物顔して入ってくる、という不愉快さがあるからです。

しかし、あずさと貴子は「菜穂を応援する」とか「須和のことも応援する」と言ったような言葉遣いをします。これは正しく「応援し〈テアゲル〉」のであって、そこにも上下関係が固定されるように思われるのです。

 

 

「情報の非対称性」「テアゲル的関係」によって、上下関係が固定されているように見えながら、それが上手く恋愛漫画として消化=昇華されているのは、おそらく二つの原因があるだろうと思います。

一つが「手紙が10年後からのものであること」であり、もう一つが「惚れた弱み」です。

「手紙が10年後からのものであること」というのは、この手紙が多くの「後悔」をした10年後の登場人物たちが手紙を出したのであって、今の登場人物たちには本質的に作用しない、という点です。

より簡単に言えば、上下関係が固定されるのは、今の翔と10年後のその他5人なのであって、今の5人は10年後の自分たちの指示の通りに動いているに過ぎない、ということです。

次第にその手紙から逸脱した行動をとり始めるようになりますが、それはその手紙があるパラレルワールドでの10年後の自分たちからの手紙であって、別のパラレルワールドを選択する上で、必ずしもそれが模範解答には思われないからです。

手紙から離れて翔を救おうとする登場人物たちは、もはや「情報の非対称性」を抱えた存在ではなく、同じ高さに立っているのではないか、ということです。

「惚れた弱み」というのは、タイトルに本質的にかかわりますが、この上下関係の固定というものを崩す一番の要因が「菜穂は翔に惚れてしまっている」という点であり、この時点で実際には菜穂<翔という関係が固定されそうなものです。しかしそれが手紙の存在や「テアゲル的関係」によって、かろうじて同じ高さに保たれている、だからこそ、この漫画は恋愛漫画として成立したのではないでしょうか。

 

 

ゲーム的リアリズムの作品は、枚挙にいとまがないだろうと思いますが『シュタインズ・ゲート』や『魔法少女まどか☆マギカ』といった「繰り返して最良を選択する」といったものとは本質的に異なります。

シュタインズ・ゲート』における岡部倫太郎は、何も知らないまま、繰り返してシュタインズ・ゲートという仮想のパラレルワールドを選択しようと試み、『魔法少女まどか☆マギカ』では暁美ほむらがまどかの死なない仮定の世界を選択しようと試みる。しかしそれはあえなく失敗し、そのいずれでもない世界に後付的に最良を見出す。

しかし本作でのゴールは明確に定められている。「翔を救うこと」です。そんな世界があり得るのか、と思われるかもしれませんが、実はそこに直接辿り着こうとしているのではなくて、自分たちの「後悔」をなくしたい、というのが手紙には仮託されているのです。

有体に言ってしまえば、「自分たちの『後悔』をなくすことができたら、翔がやはり自殺を選んでも仕方がない」という雰囲気さえ漂うのです。(もちろん手紙にはそんなことは書かれていません)

「後悔」から生まれる「責任感」が登場人物たちを翔を救うことへと向かわせます。固定されてしまいがちな上下関係を、恋愛関係で廃し*2、下品な言い方をすれば「タイマン」とでも言うべき必死さがあるからこそ、この物語は、共感できるはずがないのに共感者を集めるのではないでしょうか。

*1:実際、彼らは10年前に手紙が届いたのかすら認識しておらず、自分たちの後悔を薄めるために、一縷の希望に託して手紙を出している。

*2:逆に言えば、一般の恋愛漫画では「惚れた弱み」をヒロインに付すことによって、上下関係が固定されているとも言える。これは「男同士の絆」に対する女性に「選択されたい」という願望にも受け取られ、愉快な構造ではない。

アニメ「多田くんは恋をしない」

まず言えば、この作品は特段の名作ではない。むしろ既視感ある場面の連続と言っても過言ではなく、それを一種の間テクスト性と捉えるのは無理があるだろうし、同語反復となることを恐れずに言えば典型かつ王道のボーイ・ミーツ・ガールと言った具合か。

主人公らの通う高校は銀河大学付属恋ノ星高校で、こんなにふざけた名前をつけて、と一笑に付したくなるところではあるが、その他のキャラクターの名前は普通。

ボーイ・ミーツ・ガールの本作におけるボーイ、即ち主人公の多田光良は両親を事故で亡くしているという点以外では普通。

親が死んでいる、と言えば例えば「orange」の成瀬翔だとかが思いつくところだが、成瀬翔において親の死が重要な意味を持っていたのと比べると、本作ではかなりそれは消化されている。

もちろん親の死とどう向き合うか、だとか、その心境をヒロインのテレサワーグナーに吐露するシーンはあるんだけれど、それはある意味で「打ち解けたこと」と表現するためのツールに過ぎない。

このアニメのタイトルはかなり疑問で、例えば多田くんが恋愛に興味がない、というような描写はほどんどない。寡黙で実直な性格なのはよく分かるのだが、だからそれが「恋をしない」とどう結びつくのかはよく分からない。

であるとするならばやはり雨と絡ませたタイトルが良かったのだろうと思う。

ヒロインのテレサは日本の時代劇「れいん坊将軍」を好きで、その劇中のセリフ「いつも心は虹色に」をよく放つ。

さてこの虹というのが一種重要な機能を持つ。というのはやっぱり虹の前には雨が降るというところ。世の中のアニメ全て見たわけではないから何とも言えないが、この「雨」というのには概ね「接続」という機能があると見て良いだろうと思う。

ちなみに似たところで言えば「雪」は「閉鎖」と言ったところか。

本作において誰かが自殺したのは学校祭の季節であるし、『ソロモンの偽証』で柏木卓也が自殺したのは冬。これは一致しないが、しかし本作において生徒たちが学校に閉じ込められたのは冬である。つまり冬には独特の雰囲気があるらしい。

辻村深月『冷たい校舎の時は止まる』 - ダラクロク

 「雨」が「接続」の機能を果たす例としては「アオハライド」を思い出しておけば良かろう。

アオハライド」と言えばかくれんぼか何かの最中に雨を神社の軒下でやり過ごす、というような話があって、また、そのイラストも使われていた。

おそらく「晴れ」の「開放性」と反対に、「雨」は雨宿りを媒介にして「接続」の機能を果たし、「雪」はそのシンと静まり返った雰囲気から「閉鎖」の機能を持つ。

似た機能を持つものとしては映画『君の名は。』における電車が、周囲の空間から断絶され別の空間へと接続するところから「断絶」と「接続」の意味を持たされていたと思うのだが、「雨」には「接続」の意味合いしかない。

そこからしても「雨」なるものの下でまさにボーイ・ミーツ・ガールするというのは意味合いがあるように思われる。

さて「雨」で「接続」された二人が、その後どうなるのか。即ち、雨が止んだ後に「虹」が出るようなことはあり得るのかという話になる。

その障害として立ちはだかるのは、ヒロインがラルセンブルクのお姫様らしいというところ。これに関しては序盤から示唆されているのでネタバレにはならないだろうと思う。

このアニメは必ずしも女性向けじゃない、というところなんだろうから意図したわけじゃないんだろうけれど、「オオカミ少女と黒王子」みたいに所謂学園一のイケメンを「王子」と呼んで憚らない風潮に対する皮肉を感じないではない。こちらは本物の「お姫様」ですよ、と。

この格差というのは、実際かなり心地よい。しばらく前のドラマで「やまとなでしこ」というようなものがあったけれど、あれに似たような? いや、よくよく考えてみると似てない。むしろ「セレブと貧乏太郎」──いや、違うな。と考えると、この作品の特異性が分かる。

なぜこの格差が心地よいかというと、やはりここ数年の恋愛ものは「男が女を選択する」あるいは「女が男に選択される」という物語であったからだろうと思う。その辺を廃したものとしては「逃げるは恥だが役に立つ」なんかがあるわけで、やっぱり、あのドラマの人気を見ると、やっぱり「選択」を基軸にした恋愛ものの時代は終わったんじゃないかと思う。*1

多田光良がテレサを「選択」したとしても、それだけでは全く意味をなさない。つまり、「選択」だけではそれが意味をなさないようにこの身分差が機能している。

恋愛ものが恋愛ものたる所以、即ちいかにそれが現実離れしているかというところを、ヒロインがラルセンブルクのお姫様であることが担保しつつ、「選択」という一方性を機能停止に陥らせている。

ヒロインが外国人、なおかつヨーロッパの、しかもルクセンブルクを思わせるラルセンブルクなる国のお姫様、という点で、と考えると、一種のパリ症候群的なものを感じないではない。

けれどそれによって固定された関係性はある種この作品を王道であって王道ではなくしている。

畢竟この作品は、王道であるようであって王道ではない。どこかで見慣れた場面の連続は、それ自体が過去の恋愛ものへのアンチテーゼとして機能している。と、思う。

*1:火曜ドラマで言えば「あなたのことはそれほど」は、その「選択」の破綻を描き、「カルテット」は、その「選択」の認知されない恣意性から「選択」の確からしさを揺るがしている。

映画『クソ野郎と美しき世界』

 SMAPを抜け、ジャニーズを抜けた3人の主演映画。「新しい地図」というのがNEW MAPであり、東西南北を「地図」に繋げると NEWS MAP、つまりNEW SMAPに繋がって「新しいSMAP」になるというのはよく言われるところですが。

と言いつつ、この4本のアンソロジー、どれも抽象的という感じで。いや抽象的な映画は苦手なんだな、自分。

1:「ピアニストを撃つな!」

よく分からないストーリーではあるが、主演は稲垣吾郎で、役名はゴロー。監督が園子温で、そりゃ分かりっこない。この監督の映画見たことないんだもの。

ゴローはピアノを演奏しつつ、かつて会った女性が忘れられず、その女性を花火で呼び寄せる。

その女性フジコは通称マッドドッグと呼ばれる大門に囲われた女で逃走劇が始まる。

その逃走もカラフルで何とも分からないんだけれど、基本的に説明役を務める語り手のゴローは何とも心もとない。時制が滅茶苦茶で、信用ならない。

官能的な感じと、それでいて少し不真面目な感じの中でバイオレンスは巧みに隠蔽される。だから少し耐えられるが、面白い面白いと言ってみる作品ではない。強いて言うならfunnyではなくinteresting。これはつまらないを意味しない。

2:「慎吾ちゃんと歌喰いの巻」

一番伝えたいことがはっきりとしていて、見ていられるのはこの短編だったと思う。

主人公は香取慎吾演じる慎吾ちゃんだが、彼は絵をかくのが趣味で、かつては歌を歌っていたらしく、なおかつ芸能人ともパイプがあるから、まさしく香取慎吾その人なのだろうと人々は気が付く。

ヒロインの歌喰いが人々の歌を食べてしまう、その中で慎吾ちゃんの歌も食べられ、彼は歌えなくなる、という話。

これは明らかにジャニーズを脱退しSMAP時代の歌を歌えなくなったことを意味している。その点から考えて、最終的におそらくそれを取り戻せないというオチはかなり意味深長。

もちろんそこに注目して、つまりジャニーズによって歌を奪われた彼が、或いは絵画さえも奪われた彼が、歌喰いから歌を取り戻せないという話に自己満足を覚えてもいいのだが、それよりも面白いのは、この作品において本来聴覚的であるべき音楽が、それ以外の感覚にスライドされていること。

この一種共感覚的にとらえられる音楽は、慎吾ちゃんの描いた絵から音楽が感じられるという形で視覚に転移し、歌喰いのウンコがそのまま音楽であり、それを触ることが出来るという形で触覚に転移し、それを食べることで音楽を取り戻されるために嗅覚と味覚に転移する。

音楽が音楽でなくなる描写、聴覚の転移はかなり挑戦的な試みだと思う。

3:「光へ、航る」

いかにも一般受けしそうなのがこれで、強いて言うと一番「分かる」作品になっている。ストーリーにもかろうじて脈絡があるし。

草彅剛演じるオサムと裕子の間の男の子の右腕を受け継いだらしい女の子を探しに行く話。その女の子は誘拐されていて、その女の子を息子の使っていた野球ボールをヒントに探していく。

ちなみにこの誘拐犯を(今は健太郎改め)伊藤健太郎が演じている。頑張ってほしい。今回は好演してました。ついでに言うと滅茶苦茶イケメンでした。

最終的にはこの伊藤健太郎の指を詰めて終わり。息子の右腕を受けついだ女の子に思いは託されました、というめでたしめでたしな結末。

4:「新しい詩」

と、こういう三者三様なアンソロジーが、かなり乱雑に並んでいて、どうやら世界観を同じにするらしい、とやっと分かるのがここ。

指をつぶされたと思っていたゴローはピアノを弾いており、音楽を歌喰いのウンコから取り戻した慎吾ちゃんは歌を歌う。

この歌というのが、やっぱりジャニーズへのアンチに満ちている。

誰がどう見ようと、ジャニーズのことを「どうしようもないとこ」と呼んでいるし、その連中のことを「クソ野郎」と呼んでいる。或いは「楽になろうぜ」と呼びかけることからも、「クソ野郎」とはジャニーズ事務所に残った木村拓哉中居正広を意味するのかもしれない。

やはり象徴的なのは2本目とのつながりで、歌を歌喰いに奪われたはずの慎吾ちゃんが新しい歌を歌えているのは、やはりジャニーズを離れたからだろう。裏を返すと「新しい歌しか歌えない」。

 

作品全体通して、やっぱりかなりジャニーズへのアンチテーゼに満ち満ちている。ただ作品それ自体としては別段つまらないというわけではない。

主演の3人がジャニーズをかなり大騒ぎして抜けた、というコンテクストを無視してもなお面白いかはかなり疑問だが、それでもこれで続編を作るというんだから、なるほどそれほど不評ではなかったらしい。

この一種ジャニーズに向けられたルサンチマンからどのタイミングで彼らが解放されるのか、が個人的には一番の関心事だ。